創作の領分になるとは思いますが、その状況に玉や信重妻がどう感じていたのかという点も大変興味があります。
いろいろと教えていただきありがとうございました。大変参考になります。
創作の領分になるとは思いますが、その状況に玉や信重妻がどう感じていたのかという点も大変興味があります。
いろいろと教えていただきありがとうございました。大変参考になります。
遺族が豊臣家に取り立てられたのは、この渡辺氏との関係や茶々や秀吉の「織田家志向」が影響したのかも知れません。すなわち「光秀の娘」という概念よりも「織田家に嫁いだから織田家の女性・息子も織田一族」という認識に依るところがあると考えています。
茶々からすると従兄弟の奥さんで従甥・従姪となりますし。
遺族が豊臣家に取り立てられたのは、この渡辺氏との関係や茶々や秀吉の「織田家志向」が影響したのかも知れません。すなわち「光秀の娘」という概念よりも「織田家に嫁いだから織田家の女性・息子も織田一族」という認識に依るところがあると考えています。
茶々からすると従兄弟の奥さんで従甥・従姪となりますし。
僅かながら接点はあったように思います。
といいますのも、七兵衛信重(史料に見える諱)遺児のうち娘は京極生双(高知・高次弟)に嫁いだとされています。
彼ら京極一族に京極香集なる人物が居りまして、この彼は玉の舅細川藤孝と昵懇であったとされており(五十嵐 正也「京極香集斎考」淡海文化財論叢 第十五輯)、本当に僅かながら接点はあった、と言えるかもしれません。
(尤も生双は文禄年間には毛利氏を室に迎え舅の遺領に移るので、その頃までには離縁か死別していたのでしょう)
僅かながら接点はあったように思います。
といいますのも、七兵衛信重(史料に見える諱)遺児のうち娘は京極生双(高知・高次弟)に嫁いだとされています。
彼ら京極一族に京極香集なる人物が居りまして、この彼は玉の舅細川藤孝と昵懇であったとされており(五十嵐 正也「京極香集斎考」淡海文化財論叢 第十五輯)、本当に僅かながら接点はあった、と言えるかもしれません。
(尤も生双は文禄年間には毛利氏を室に迎え舅の遺領に移るので、その頃までには離縁か死別していたのでしょう)
そのあたりの繋がりも資料を探す際の頼りにしてみようと思います。
信重遺児の男児2人は後に秀頼に仕え、徳川実紀には彼らの母も千姫に侍女として仕えたとあるらしく、(この母は光秀娘とは限りませんが)父の仇である豊臣に対するスタンスの齟齬などもあったのかなと考えてました。
そのあたりの繋がりも資料を探す際の頼りにしてみようと思います。
信重遺児の男児2人は後に秀頼に仕え、徳川実紀には彼らの母も千姫に侍女として仕えたとあるらしく、(この母は光秀娘とは限りませんが)父の仇である豊臣に対するスタンスの齟齬などもあったのかなと考えてました。