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sabayasi.bsky.social
@sabayasi.bsky.social
思索っぽいことを書こうという意思がある
 最低でも三百字は書かねばならないという意識が働いて、ブルスカに書き込む機会が減っている。言うほどのことは殆どない。言うことがあってもブルスカ以外の場所(Twitterや Discordでの書き込みや小説)で言うことが多い。書く場所が変わっただけではあるのだが、このままフェードアウトしていくのに一抹の寂しさを覚えもする。頭の中のノイズが減ったと考えれば良いことのような気もするが、単純に何も考えずに生きていくのはどうなんだ……? 人がそうである分には構わないが、自分は色々考えていたい。というより、色々益体もないことを考えるのが私だと私は思い込んでいるので、ただ変わりたくないだけなのかもしれない。
December 25, 2025 at 7:09 AM
 妹の誕生日祝いということで、先日家族で馬肉を食べに行った。大変美味しかった。食べ始めてから気づいたが、来年は午年なので縁起が良いのかもしれない。それに、午年ということは、私は年男だ。縁起が良い気もするが、二十を超えてからというもの、歳を食うのはあまり嬉しくない。それこそ馬齢を重ねるというものだ。
 一年はあっという間に過ぎてしまう。その割には夏と冬はやたら長く、中々去っていかない。暖房をつけないこいことには何も出来ない寒さだ。早く春が来てほしいが、春と秋はどうせすぐ去ってしまう。桜はすぐに散るし、きっも午年もぼーっとしてるとすぐに過ぎてしまうだろう。そういえば馬肉のことを桜肉とも言うらしい。
December 9, 2025 at 10:05 AM
 ホットケーキの上でバターを溶かし、生クリームとラムレーズンも少し乗せた。普段は渋みが強くてあまり飲まない紅茶と合わせて食べた。当然美味しい。
 Spotifyが私のために作ったプレイリストを流し、ぼーっと聴きながら過ごしていた。KIRINJI、笹川真生、ミツメ……。
 母親に対して『海辺のカフカ』を朗読するのがここのところの習慣だ。欠ける日もそれなりにあったが、一日一章を読むペースだから、次で最後。
 友人らとPodcastの収録をした。テーマのある会話をする機会はたまにしかないから、これはこれで楽しい。普段する、テーマのない雑談も勿論楽しい。
 明日から師走、十二月で、明日は妹の誕生日だ。
November 30, 2025 at 8:34 AM
 何も出来ない気分で、新シナリオが更新されたらしいブルアカに一先ずログインだけでもしようかと思ったが、一喜一憂するためにガチャを引いてるような友人を見ると、アプリを開く前から疲れてしまって、先延ばしにしてしまう。どうせ今やらねばならないことではないし、別にいいのだが、それはそうと疲れる。何に疲れているわけでもないだろうから、ただ体力がなく、無気力なだけという気もする。
 複雑なことを語ろうとすると「だが」や「気がする」が増える。単純なことを「だが」や「気がする」で複雑に考えているだけ、なのかもしれない。
 部屋の窓から、初冬の割には陽光が入ってきて温かい。少し眩しすぎるくらいだ。特段外に出たい
November 14, 2025 at 3:59 AM
 無限にほぼ近い有限回、同じような言葉を繰り返し続けている気がする。まったく同じではないだろうが、ほぼ同じようなことを、有限の人生で何回も繰り返しているとそれはもう軸みたいになってくるし、無限の世界になってくる。
 有限の世界からどれだけ飛躍して見せるかというのに関心がある。天井のある部屋を宇宙に見せる、みたいな。今の自分に限界を感じるからこそ、そういう夢想を抱くのかもしれない。夢想でも現実観でもいいが、そういうの。
 反復の持つ催眠あるいは暗示効果に惑わされていく。言っている内に私の中では本当になる。それが良いのか悪いのかは分からない。成長でも退化でもない、ただの変化という気がする……。
November 12, 2025 at 8:15 AM
 一人で幾つかの立場を取って自分の発言に対してまた自分で反駁することを繰り返していると、何でも言えてしまう気がする。どの立場にも一面的な正当性はあり、その中からどれか一つを断乎として選び取れるほどの素地が自分にはない、と。
 以前、村上春樹の小説か何かで「一般論ではどこへも行けない」だか「一般論だけではどこにも行けない」というような文を見て、引っかかりを覚えるか感心するかして、兎に角覚えているのだが、最近になってそれが身に染みて響いてくる。何でも切れる刀であらゆる物を切ってもそれぞれに対して適切な切り方を出来ているとは言い難いように、一般論と一般化は時に議論を後退させる。
 しかしながら、同時
November 12, 2025 at 8:03 AM
 巨大な組織や社会体制に勝てっこないと思いながらも反感を抱く者は多い。個人では太刀打ち出来ないと思いつつも、それらに抗う人間の物語には心を打たれる。
 アトウッドの『侍女の物語』は、社会体制が(悪い方向へ)進むところまで進んでしまった世界の話で、主人公は抗うことをしない。どんな種類の抗いも「危険すぎる」と考えざるを得なくなってしまっている。どうしようもなさの中を彷徨う読書を終え、どっと疲れる。存在を忘れていた、本来私が持つべき重い物を急に持たされたかのような、読後感だ。
 果てのない迷路のような社会体制の中で、地図を読むことも、探すことも許されない。
 言葉も声も封じられる。聖書内の文言を極め
October 28, 2025 at 1:05 AM
 纏まりのない文章ばかり書いているというのか、纏まりのある文章を書こうとしてもすぐにその均衡は崩れてしまって、纏まりがなくなるというのか……思えば日々の生活にも纏まりがないような気がする。例え、それまでの日々に纏まりを持たせるような結節点とも呼ぶべき日が数えるほどにせよあったとして、その後に続く多くの日は砕け、倒れ、崩れ落ち、弛み切っている。その連続を雑巾の如く絞って、僅かでも纏まりのある物を作るというよりも、その纏まりのなさにこそ魅力を宿らせていく方に今の私は興味があるのではないか。そう思うようになったキッカケの一つには、カフカの『城』があり、また他方には保坂和志の小説群がある。それに、今日
October 25, 2025 at 8:59 PM
 大した理由はないが、このアカウントは既に完結したつもりになっていて、そっと二週間ほど何の投稿もしていなかったが、何か纏まったことを言おうとするのにツイッターの140字では無理がある。それに放言するにしてもあまり良い環境とは言えない。それで、こうしてブルスカに舞い戻ってまでして書こうと思っているのは藤本和子の文章についてだ。無論、ブルスカに書く程度の散漫な物思いにしかならないだろうけれど、いつか纏まった物を書くためのメモとして書いておく。
 彼女の文章に初めて触れた『イリノイ遠景近景』を読んでからというもの、私は度々友人らにこの著述家の魅力を伝えようとしてきた。近年になって活発に復刊や文庫化が
October 23, 2025 at 6:33 PM
 ツイッターアカウントを復活させた。今日ツイートしないことは出来てもずっとツイートしないことは出来ない。ツイッターをしていない人間に対する不信感もあるので、それがある内はツイッターをやめられない。ツイッターをまともに出来てないやつでも、ツイッターをやらないよりはマシだ。
 最近はまともにコンテンツの話をせずに生活の話ばかりしていて自分でもつまらない。鬱がどうの、愛がどうの。これもまたnoteに纏めるけれど、何の意味もないのは明白だ。消極的に生きたり書いたりしている。
 魂の根底の部分がずっと疲れていて元気がなく冷えている。魂の根底の部分をどうこうするのは大変なのでいつも見過ごし、絡め取られる。
October 9, 2025 at 7:06 AM
 先日の投稿に見えない返信がついていて気味が悪かったので返信を不可にした。このSNSを、そもそも人とコミュニケーションを取るためにやってない。人とコミュニケーションを取るためにやっていたツイッターは先日アカウントを消した。アカウントを消しても現実はあるし、ツイッターで話すことがなくなっても、現実では何か言葉を発している。嬉しくないことだ。一生何も話したくないと決め込んでも、咄嗟の返事はしてしまうし、それで気が緩んで結局引きこもりにも成れない。現実という壁があってそれにぶつかって壊れる虚構という卵があるとしたら私は卵の側に立ちたい。しかし、どこかで信念が揺らぐ。それでも元の場所に戻るのが大事だ。
October 9, 2025 at 6:50 AM
 高校の友達との間で私は厄介オタクとか捻くれオタクということになっていて、別にそこではそれでいいんだが、オタク以前に厄介でも捻くれでもない人間なんて……という思いも、当然ある。別に厄介だったり捻くれだったりしていればいいという話でもないが、個人的には空虚でないだけマシだとは思う。
 これは色んな色がある地獄がいいか、一切色がない天国がいいかみたいな問いにもすり替えられそうだし、或いは都会の鼠か田舎の鼠か、ということになるのかもしれない。当然私は都会の鼠がいい。要は個々の考え方次第なんだが、それでも一考の余地があるのに、してない人が多過ぎないか?とは思う。言葉の誤用なんかよりもよっぽど気に障る。
October 7, 2025 at 7:45 AM
 アニメ映画の「チェンソーマン レゼ篇」を見たのは昨日のことで、寝て起きると激烈な昂りや衝撃は無くなっていた。それでも人生は続く。私の生きている風景にはレゼも、かつて人生で会った女の人も、当然いない。それでも人生は続く。
 起きてから1/4になったチーズパンとジャガイモパンを食べた。ベーグルをコーヒーで流し込み、食べた。仮眠を取り、昼食を摂った。書店に行き、『中国行きのスロウ・ボート』を買ってからサブウェイでパーティトレイのAを頼んだ。「中国行きのスロウ・ボート」を読み終えると、丁度出来上がったのでそれを持ち帰った。小雨が降っていた。ずっと降っているようだった。
 早く小説を書かねばならない。
October 4, 2025 at 6:59 AM
 普通に泣いてしまって笑った。人生ってこれすぎる。以下、「rewrite」のOP2の歌詞。

熊木杏里「End of the World」

少しずつ波紋は離れていった
いつしか ひとつも重ならなくなった

それでもいい きみと居たら

こんな気持ち いつから抱(いだ)いた
ただひとりの少年の恋物語だ

永遠にきみを守ってみせる
この胸に 刻み込む
いつから ふたりきりになったんだっけ
もういいか そんなこと
笑ってよ 終わるその日には

いつか水滴がいくつも落ちてた
波紋が何重も重なり合ってた

暖かさを 今 覚える

こんな穏やかに過ごせたなら
でも そんな時間は一瞬だってわかってる
October 2, 2025 at 1:13 AM
End of the world
open.spotify.com
October 2, 2025 at 1:07 AM
笑。
October 2, 2025 at 1:05 AM
 アナル。アナルガン。アナル癌。肛門癌。前立腺癌。チンポ。チンポジ。チンポジション。死ねアナル。意味なしアナル。完全に終わってるチンポ。チンポが完全に終わっている。チンポ自身が完全に終わっていてかつ完全に癌のアナルになっている。癌。癌のチンポ。癌になる。バザンが癌になって破顔一笑死ねアナル。意味がないアナル。存在がない。意味なしバルタザール。ポンプ。ポルポト。ポルノ。エロ。チンポエロ。マンコエロ。世界エロ。世界変えろ。チンポ死ね。チンポ消えろ。チンポ消えろ。チンポ死ね。アナル時間。マンコ。マンコがない。万個ない。一個もない。意味がない。意味がなく苦しく終わっていて意味がなくマンコが癌の中で意味
October 2, 2025 at 1:00 AM
 いい加減意味のありそうなことばかり言うのは止してこのアカウントも妄言や発狂を垂れ流すだけのアカウントにしようかと思っている。というよりも、妄言や発狂を堰き止めてわざわざ意味っぽい文章を書いたところで何の意味もない。素朴に下ネタや汚言を吐かないと実存が崩壊してしまう。とはいえ、下ネタや汚言を吐くことにも飽きている節はあり本当は言いたいことなど一つもない。ただ叫んだり喚いたりしたいだけだ。つまらない。こういう投稿自体をしてしまうこと自体前置きみたいでつまらない。生きる意味がない。書く意味がない。意味がないだけならいいが辛く苦しい。でも辛く苦しいのは治らない。何かをしたりやめたりしても、治らない。
October 2, 2025 at 12:31 AM
 生きることは苦しいが仕方ない。服を着替え、ベルトを締める。壁に掛けてあるショルダーバックを取る。
 いつも使っている水筒を洗っていると内部に錆っぽい汚れが付いていた。よく磨いたが上手く落とせない。取り急ぎペットボトルに麦茶を入れて持って行く。
 普段履いてる靴は履きやすいが水が染み通ってくるので、水が入ってきにくい方の靴を出す。靴紐を結び直して履く。
 外は涼しい。ノートと文庫本をジップロックの袋に入れて来たが、思った程は降っていない。折り畳みでもいい気はしたが、取り敢えず長傘を持って行く。雨はいつ強まるか分からない。
 慣れない靴なので疲れるし単調な道のりだが歩くのは楽しい。ミスドへ行く。
October 1, 2025 at 2:10 AM
 雨の所為か起きるのがいつもより一時間遅くなった。調子が狂い、ミスドに行けない。ここ数日ほどミスドで小説の作業をしていた。行くのを諦める。
 雨で狂う程度の習慣なのだから、今行ったところでいつかはどうせ崩れたはずだ。面倒でも行くべきではあるが、面倒なら行かなくてもいい気もする。いや、面倒な記憶が習慣に付着してでも、それを跳ね返すくらいの力がないなら、習慣にもならないし、小説も書けないのかもしれない。
 でも、行かない。面倒だし、疲れてる。
 家で出来ることをやろう。パソコンにノートの文字を起こす。静かに読者に集中する。ノートだって、家でも書ける。でも、すぐに力が萎んでしまう。行くのに徒歩で三十
October 1, 2025 at 1:25 AM
 進歩がない。退歩もない。色々やったつもりが、同じところをぐるぐると回っている感覚だけがある。でも、時間は前に進んでいるから、それで言うと退歩なのかもしれない。堂々巡り、千鳥足。楽しいことも苦しいこともあるけど、それだけ。それだけでいいのだけど、満足したり充足したりはしない。それでいいのかもしれないけど、それは本当に楽しいわけでも苦しいわけでもない気がする。いい、って何が基準のいいなんだろう。本当に、ってのもないのだろうか。言葉尻だけのことしか言っていないから、言い訳がましい。言葉尻か女の尻しか見てない。それもちゃんと捕まえられていない。そんな人生ないし生活だから、進歩も退歩もないのは当然か。
September 25, 2025 at 7:13 AM
 長いこと小説を書いていない間にWordの執筆画面に立ち向かうこと自体が難しくなっていた。以前はそもそも「立ち向かう」なんて意識だったか、どうか。覚えていない感覚のことなので覚えていない。それは、鬱になる前の自分と鬱になった後の自分がすっかり断絶しているかのように認識してしまうのと同じ感覚だが、それほど深刻ではないはずだ。とはいえ、自分の力を活かすためにもやらねばならないことを出来ないのは苦痛で不満が残る。仕方ないので、取り敢えずWorkflowyで未執筆部分の案を練り直すことにする。改稿のためには欠かせない作業だが、どうも煮え切らない、前に進んでいる気がしない感じで実際の作業量よりも疲れる。
September 16, 2025 at 5:34 PM
 昨夜にかねてより予定調整していた身内とのマダミスを執り行い、大過なく進められた。安堵したが無論反省点もあった。話が複雑すぎる割に情報が少なかったのが、今回の一番の反省点というか、改善点だろう。あまり情報が多すぎてもプレーヤーの頭がパンクするかと思ったが、情報ないところを埋めるためにも頭は使うため、ならもう少しプレーヤーを信じて情報を出しても良かったな、と。また、情報が確たる証拠ではなく、陰謀論の種としてしか機能してない面もあり、これはその手探り感が楽しみにも繋がるから難しいが、まだ良くできる余地があると思った。とはいえ、感想戦含めて五時間、それなりに楽しんでやってもらえたので良かったとする。
September 15, 2025 at 4:45 AM
 友人らと能二つと狂言一つを見た。能は迫力があった。自分の耳がまだ慣れていない所為もあって、内容理解は文章を読んでる時ほど出来なかったが、地謡の迫力があった。静かに始まって、途中からほぼずっと地謡が発声し続けて、静かに終わる。それまでリズムを刻んでいた鼓も地謡も退場した舞台を見ると、改めて不思議な表現形態だと思った。狂言は話すスパートが能のようにゆっくりではないため、圧倒的に聞き取りやすく、また面白がりやすい感じもあった。ここが笑いどころですよ、というのも観客の反応から分かる。能二つと狂言一つを見て、途中の十分休憩があったとはいえ、かなり疲れた。地下の能楽堂から出ると外は暗く、雨が降っていた。
September 12, 2025 at 6:55 PM
「所詮はSNS」という思いがあるにしてもないにしても、SNSに対してもう少しみんな考えた方がいいんじゃないかと、周りの人々を見ていて思う。何も本気で取り組もうと肩肘張る必要はないが、漫然と続けるのも良くない。最初はどこでもいい場所として何かのSNSを始めるのは結構だが、選んで他ならぬその場所に居続けているのなら、各々の意思の関わった決定なのだから責任を持って投稿して欲しい。投稿もちゃんとその人のバリューを出して欲しい。ツイッターの投稿を外部ツールを使ってブルスカでもするなんて言語道断、というか意味がないと思う。なんのためにやるんですか?と。文章を書くのに拘らずとも、何かを始める動機なんてささや
September 9, 2025 at 9:43 AM