「動き」とは全てのうごきのことである。
動いている「主体」
みたいなどこかに境界線を引くような世界認識をやめてみる。そうしたときに味わう「動き」。
自⇔他
とか
内⇔外
とかもすべてやめる。そして、それら動きと寄り添い続ける。本来そうであったように。
「動き」とは全てのうごきのことである。
動いている「主体」
みたいなどこかに境界線を引くような世界認識をやめてみる。そうしたときに味わう「動き」。
自⇔他
とか
内⇔外
とかもすべてやめる。そして、それら動きと寄り添い続ける。本来そうであったように。
負けても
大丈夫じゃなくても
大丈夫、なんだと思う。
胸椎の重さをその下の身体たちが支えられてないのもかなり原因。ここしっかりボディワーク。
負けても
大丈夫じゃなくても
大丈夫、なんだと思う。
胸椎の重さをその下の身体たちが支えられてないのもかなり原因。ここしっかりボディワーク。
というより、全てはどこかから来て自分を通り過ぎ、そしてどこかに消えていく。
「今」というフィーリングは絶対的だが、そこに時間という次元を足すと、その「今」も変わっていくものだと気づく。
というより、全てはどこかから来て自分を通り過ぎ、そしてどこかに消えていく。
「今」というフィーリングは絶対的だが、そこに時間という次元を足すと、その「今」も変わっていくものだと気づく。
「自分に起きていることを味わう」ということの重要性を説いていてもなお、それを避けようとする自分がいる。なぜ避けようとしてしまうのか、それは恐れ。何に対しての恐れなのか。変化に対しての恐れ、それによってなにかを行使することへの恐れ、それによって選択することへの恐れ、負けることへの恐れ、自分を愚かだと認識してしまうことへの恐れ、泣いてしまうことへの恐れ、なにかが停滞することへの恐れ。このあたりの恐れの、質的な共通点を探りたい。このあたりの味わいのヒントというか。
いま思ったのは、非常に「あせり」みたいなものがあるんだな。それが味わいを阻害している気はした。
「自分に起きていることを味わう」ということの重要性を説いていてもなお、それを避けようとする自分がいる。なぜ避けようとしてしまうのか、それは恐れ。何に対しての恐れなのか。変化に対しての恐れ、それによってなにかを行使することへの恐れ、それによって選択することへの恐れ、負けることへの恐れ、自分を愚かだと認識してしまうことへの恐れ、泣いてしまうことへの恐れ、なにかが停滞することへの恐れ。このあたりの恐れの、質的な共通点を探りたい。このあたりの味わいのヒントというか。
いま思ったのは、非常に「あせり」みたいなものがあるんだな。それが味わいを阻害している気はした。
つまり、行動のスケールとその行動を起こそうとする意志とそれ(行動)を「意志すること」によって割かれる意識のリソース、其々の大きさは本来相関関係にない。これは偉大な気づきである。かつそれらは通常相関関係にあると誤解されがちである。
大きな決断に、大きな意志が必要とは限らない。大きい動きに大きな決意が必要とは限らない。「大きい」という語のイメージによって、「意識のリソースを割かねばならない」と無意識に誤解している。
これらの気づきは長年探究してきた「静けさ」の理解をまた一歩深めるものだった。
つまり、行動のスケールとその行動を起こそうとする意志とそれ(行動)を「意志すること」によって割かれる意識のリソース、其々の大きさは本来相関関係にない。これは偉大な気づきである。かつそれらは通常相関関係にあると誤解されがちである。
大きな決断に、大きな意志が必要とは限らない。大きい動きに大きな決意が必要とは限らない。「大きい」という語のイメージによって、「意識のリソースを割かねばならない」と無意識に誤解している。
これらの気づきは長年探究してきた「静けさ」の理解をまた一歩深めるものだった。
おれが「不思議」と思ってなくても不思議はあるな、いたるところに。「当たり前」なのか「不思議」なのかっていうのはグラグラの裏表だな、どっちにでもすぐひっくり返る。その気づきは、なかなかに快いものだな。
おれが「不思議」と思ってなくても不思議はあるな、いたるところに。「当たり前」なのか「不思議」なのかっていうのはグラグラの裏表だな、どっちにでもすぐひっくり返る。その気づきは、なかなかに快いものだな。
という気づき。
「疑いようもなく真実だ」と思えるようなことも「思い込み」に過ぎなかったりする。その場合、自分と思考に「気づき」がない状態、思考との距離感が0の時に、思考の内容をいくら吟味してもそれは「真実」としか感じられない。気づきがあって、距離があってはじめて内容が検討できる。自分と思考を同化させない、自分は自分、思考は思考である。
という気づき。
相対性理論や量子論が俺たち人間の実感にそぐわないものだからといって「真実でないものだ」とは言えない。
道徳的責任は現在の俺たちにとっての天動説になるのかも、と思わせる一冊。
相対性理論や量子論が俺たち人間の実感にそぐわないものだからといって「真実でないものだ」とは言えない。
道徳的責任は現在の俺たちにとっての天動説になるのかも、と思わせる一冊。
自分に抵抗を生じさせて、熱や光を発生させるような表現をしていた、という気づき。
その時自分の中に生まれる抵抗って一番味わいがある、つまり「やってる感」が得られる。「頑張り」。
その抵抗をやめて、電気を外に出す。他者とはつまり存在からして抵抗。そことのあわいに光が、熱が生まれる。
その表現をしたい。
自分に抵抗を生じさせて、熱や光を発生させるような表現をしていた、という気づき。
その時自分の中に生まれる抵抗って一番味わいがある、つまり「やってる感」が得られる。「頑張り」。
その抵抗をやめて、電気を外に出す。他者とはつまり存在からして抵抗。そことのあわいに光が、熱が生まれる。
その表現をしたい。
その理解が深まった。
胴体から離れた四肢と頭、これらと繋がる感覚を得ようとしても、5つそれぞれとのルートを意識しないといけない。
が、丹田を意識することで5つすべてと繋がる感覚を得られる。
このショートカット、意識の節約、効率化。
その理解が深まった。
胴体から離れた四肢と頭、これらと繋がる感覚を得ようとしても、5つそれぞれとのルートを意識しないといけない。
が、丹田を意識することで5つすべてと繋がる感覚を得られる。
このショートカット、意識の節約、効率化。
バイブス・振動の次元にフォーカスする。バイブス・振動に開いて、そのままからだを浸す。伝わってきたバイブス・振動も止められない変えられない。力んでも無駄である。
バイブス・振動の次元にフォーカスする。バイブス・振動に開いて、そのままからだを浸す。伝わってきたバイブス・振動も止められない変えられない。力んでも無駄である。
「疑いようもなく真実だ」と思えるようなことも「思い込み」に過ぎなかったりする。その場合、自分と思考に「気づき」がない状態、思考との距離感が0の時に、思考の内容をいくら吟味してもそれは「真実」としか感じられない。気づきがあって、距離があってはじめて内容が検討できる。自分と思考を同化させない、自分は自分、思考は思考である。
「疑いようもなく真実だ」と思えるようなことも「思い込み」に過ぎなかったりする。その場合、自分と思考に「気づき」がない状態、思考との距離感が0の時に、思考の内容をいくら吟味してもそれは「真実」としか感じられない。気づきがあって、距離があってはじめて内容が検討できる。自分と思考を同化させない、自分は自分、思考は思考である。
「疑いようもなく真実だ」と思えるようなことも「思い込み」に過ぎなかったりする。その場合、自分と思考に「気づき」がない状態、思考との距離感が0の時に、思考の内容をいくら吟味してもそれは「真実」としか感じられない。気づきがあって、距離があってはじめて内容が検討できる。自分と思考を同化させない、自分は自分、思考は思考である。
「事そのもの」
⇓
「物自体」
だった…
自分が、まず認識する、対象の「存在、そのもの」
存在が、存在する(と認識する)こと
それそのもの、の、充全感?力?
そこをすっ飛ばして「意味」「価値」に、みんないくのだけれど、手前には「存在」がある
その存在のヤバさを表すのか「有り難う」だと思う
手前の、遅さの、省略されたプロセスを、辿り直す
「事そのもの」
⇓
「物自体」
だった…
自分が、まず認識する、対象の「存在、そのもの」
存在が、存在する(と認識する)こと
それそのもの、の、充全感?力?
そこをすっ飛ばして「意味」「価値」に、みんないくのだけれど、手前には「存在」がある
その存在のヤバさを表すのか「有り難う」だと思う
手前の、遅さの、省略されたプロセスを、辿り直す
自分が、まず認識する、対象の「存在、そのもの」
存在が、存在する(と認識する)こと
それそのもの、の、充全感?力?
そこをすっ飛ばして「意味」「価値」に、みんないくのだけれど、手前には「存在」がある
その存在のヤバさを表すのか「有り難う」だと思う
手前の、遅さの、省略されたプロセスを、辿り直す
これ「それらの認識の形式がある」という話ではなく、「存在を認識するとは、そもそもそういうことなのでは」という話。
いま、俺が「ある」「存在する」などの言葉を使うとき、そこには確かな身体性が伴っている。
俺が言葉を用いて指し示す対象は「存在性」というオーラを纏う。言葉の持つ機能や力を考えれば、このような効果が言葉に付与されるのは当たり前なのだが、この「当たり前」ゆえに、オーラを感じる力は失われて久しい。
これ「それらの認識の形式がある」という話ではなく、「存在を認識するとは、そもそもそういうことなのでは」という話。
否認している自分
拒絶している自分
を
味わう
吟味する
それらの自分の雰囲気を味わい
カメラを色んな場所に動かして見てみる
からだは驚きのために、あけておいて
喉も軟口蓋も横隔膜も「何か」の準備をしたり、構えたりしない
その時の息をする
否認している自分
拒絶している自分
を
味わう
吟味する
それらの自分の雰囲気を味わい
カメラを色んな場所に動かして見てみる
からだは驚きのために、あけておいて
喉も軟口蓋も横隔膜も「何か」の準備をしたり、構えたりしない
その時の息をする
というのも、内外を同時に見る必要があるから。
というのも、内外を同時に見る必要があるから。