谷戸亮太 Ryota yato
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谷戸亮太 Ryota yato
@ryotayato.bsky.social
俳優
動き

「動き」とは全てのうごきのことである。

動いている「主体」

みたいなどこかに境界線を引くような世界認識をやめてみる。そうしたときに味わう「動き」。

自⇔他

とか

内⇔外

とかもすべてやめる。そして、それら動きと寄り添い続ける。本来そうであったように。
December 23, 2025 at 10:36 AM
俺の胸は負けるのが大嫌いで、基本「大丈夫!」と強がる。俺は「大丈夫の胸」と呼んでるんだけど。本当の大丈夫は

負けても
大丈夫じゃなくても

大丈夫、なんだと思う。
胸椎の重さをその下の身体たちが支えられてないのもかなり原因。ここしっかりボディワーク。
December 18, 2025 at 1:09 AM
感情とか、五感とか、思考とかが現れる「場」「スペース」があって、それを「意識」とか「オーラ」とか「気づき」みたいに、まあ名付けたりするわけですが、そのスペースをどう運用するか?みたいなことがテーマとしてあって。あったんですが、そのあたりの観点がスポッと抜けていたこの数ヶ月間(半年くらい?)でした。かなりヤバいかった、探究テーマの根幹みたいなとこなのに…。
December 16, 2025 at 3:48 AM
傷つきののちの、傷への耽溺を俺は責めない。責めることになんのメリットもないから。
December 13, 2025 at 6:55 AM
自分の考えがある

というより、全てはどこかから来て自分を通り過ぎ、そしてどこかに消えていく。

「今」というフィーリングは絶対的だが、そこに時間という次元を足すと、その「今」も変わっていくものだと気づく。
December 13, 2025 at 6:53 AM
横隔膜で景色を久しぶりに見た。豊かな世界。
December 11, 2025 at 4:04 AM
疑問文は空へ還す。思考しない。言語生成を先行させない。文末の「?」に対応するフィーリングに身を浸す。問いかけはやはり、祈りに似ている。
November 23, 2025 at 3:35 AM
期待値が高すぎて動けなくなってる、ということもあるかもしれない。
November 19, 2025 at 7:57 AM
なぜ「嘆き」なのか。

「自分に起きていることを味わう」ということの重要性を説いていてもなお、それを避けようとする自分がいる。なぜ避けようとしてしまうのか、それは恐れ。何に対しての恐れなのか。変化に対しての恐れ、それによってなにかを行使することへの恐れ、それによって選択することへの恐れ、負けることへの恐れ、自分を愚かだと認識してしまうことへの恐れ、泣いてしまうことへの恐れ、なにかが停滞することへの恐れ。このあたりの恐れの、質的な共通点を探りたい。このあたりの味わいのヒントというか。

いま思ったのは、非常に「あせり」みたいなものがあるんだな。それが味わいを阻害している気はした。
November 19, 2025 at 2:38 AM
8の字センサー。
November 16, 2025 at 1:15 PM
意志と意識のリソースと繊細さと 

つまり、行動のスケールとその行動を起こそうとする意志とそれ(行動)を「意志すること」によって割かれる意識のリソース、其々の大きさは本来相関関係にない。これは偉大な気づきである。かつそれらは通常相関関係にあると誤解されがちである。

大きな決断に、大きな意志が必要とは限らない。大きい動きに大きな決意が必要とは限らない。「大きい」という語のイメージによって、「意識のリソースを割かねばならない」と無意識に誤解している。

これらの気づきは長年探究してきた「静けさ」の理解をまた一歩深めるものだった。
September 27, 2025 at 3:23 PM
おれが「不思議」と思うから不思議、という面ももちろんあるんだけど

おれが「不思議」と思ってなくても不思議はあるな、いたるところに。「当たり前」なのか「不思議」なのかっていうのはグラグラの裏表だな、どっちにでもすぐひっくり返る。その気づきは、なかなかに快いものだな。
August 25, 2025 at 7:56 AM
↓のポストの「思考そのもの」「自分」は、「言葉」と入れ替えることも出来る

という気づき。
「思考そのもの」と「自分」の関わり方、コミット度合い、わかりやすく言うと「入れ込み方」というのは「思考そのもの」の内容に関わらず選択可能である。思考そのものの内容を変えようとするより、思考と自らとの距離感に気づきを持つことの方が実現可能性はずっと高い。
「疑いようもなく真実だ」と思えるようなことも「思い込み」に過ぎなかったりする。その場合、自分と思考に「気づき」がない状態、思考との距離感が0の時に、思考の内容をいくら吟味してもそれは「真実」としか感じられない。気づきがあって、距離があってはじめて内容が検討できる。自分と思考を同化させない、自分は自分、思考は思考である。
July 29, 2025 at 11:33 AM
「道徳的責任廃絶論」
相対性理論や量子論が俺たち人間の実感にそぐわないものだからといって「真実でないものだ」とは言えない。
道徳的責任は現在の俺たちにとっての天動説になるのかも、と思わせる一冊。
July 17, 2025 at 6:08 AM
電気で例えると

自分に抵抗を生じさせて、熱や光を発生させるような表現をしていた、という気づき。

その時自分の中に生まれる抵抗って一番味わいがある、つまり「やってる感」が得られる。「頑張り」。

その抵抗をやめて、電気を外に出す。他者とはつまり存在からして抵抗。そことのあわいに光が、熱が生まれる。

その表現をしたい。
June 8, 2025 at 3:33 AM
丹田という概念をどうしてヒトが生み出したのか?
その理解が深まった。
胴体から離れた四肢と頭、これらと繋がる感覚を得ようとしても、5つそれぞれとのルートを意識しないといけない。
が、丹田を意識することで5つすべてと繋がる感覚を得られる。
このショートカット、意識の節約、効率化。
May 30, 2025 at 11:59 AM
俺たちが世界を「これ」と認識する仕方としては、バイブス・振動しかない。これまでの体験を経ての反応の傾向として癖がある。それに基づいて、情報としてのバイブス・振動を「判断」(「ジャッジ」)する。「善・悪」「好・悪」「美・醜」、そして「快・不快」すらも癖の可能性がある(「痛気持ちいい」や「汚いは綺麗」等)。判断は、止められないし変えられない思考の声(「思ったこと」は変えられない)。なのでその土俵(思考の領域)でなんとかしようとしない。

バイブス・振動の次元にフォーカスする。バイブス・振動に開いて、そのままからだを浸す。伝わってきたバイブス・振動も止められない変えられない。力んでも無駄である。
May 11, 2025 at 10:15 AM
「自己否定の止め方」というよりは「自己否定の声の聞き方」をどうするか?という問題設定である。思考の声は止められない、が「思考の声の聞き方」には技術的コツがある。↓でいう「入れ込み方」「コミット度合い」「距離」への気づきである。
「思考そのもの」と「自分」の関わり方、コミット度合い、わかりやすく言うと「入れ込み方」というのは「思考そのもの」の内容に関わらず選択可能である。思考そのものの内容を変えようとするより、思考と自らとの距離感に気づきを持つことの方が実現可能性はずっと高い。
「疑いようもなく真実だ」と思えるようなことも「思い込み」に過ぎなかったりする。その場合、自分と思考に「気づき」がない状態、思考との距離感が0の時に、思考の内容をいくら吟味してもそれは「真実」としか感じられない。気づきがあって、距離があってはじめて内容が検討できる。自分と思考を同化させない、自分は自分、思考は思考である。
May 11, 2025 at 10:02 AM
「思考そのもの」と「自分」の関わり方、コミット度合い、わかりやすく言うと「入れ込み方」というのは「思考そのもの」の内容に関わらず選択可能である。思考そのものの内容を変えようとするより、思考と自らとの距離感に気づきを持つことの方が実現可能性はずっと高い。
「疑いようもなく真実だ」と思えるようなことも「思い込み」に過ぎなかったりする。その場合、自分と思考に「気づき」がない状態、思考との距離感が0の時に、思考の内容をいくら吟味してもそれは「真実」としか感じられない。気づきがあって、距離があってはじめて内容が検討できる。自分と思考を同化させない、自分は自分、思考は思考である。
March 14, 2025 at 3:10 AM
March 4, 2025 at 10:35 AM
間違えた

「事そのもの」
   ⇓
「物自体」

だった…
「事そのもの」、ではなく
自分が、まず認識する、対象の「存在、そのもの」
存在が、存在する(と認識する)こと
それそのもの、の、充全感?力?
そこをすっ飛ばして「意味」「価値」に、みんないくのだけれど、手前には「存在」がある
その存在のヤバさを表すのか「有り難う」だと思う
手前の、遅さの、省略されたプロセスを、辿り直す
February 25, 2025 at 10:52 AM
「事そのもの」、ではなく
自分が、まず認識する、対象の「存在、そのもの」
存在が、存在する(と認識する)こと
それそのもの、の、充全感?力?
そこをすっ飛ばして「意味」「価値」に、みんないくのだけれど、手前には「存在」がある
その存在のヤバさを表すのか「有り難う」だと思う
手前の、遅さの、省略されたプロセスを、辿り直す
February 24, 2025 at 1:07 AM
この考えを拡張すると、存在を認識するとは、自己の意識に対象の存在を侵襲される行為ともいえる。溶け合い、混ざり合う。

これ「それらの認識の形式がある」という話ではなく、「存在を認識するとは、そもそもそういうことなのでは」という話。
存在を認識するということは、ある意味では自己の意識を対象の存在に「拡張」させているとも言える。その考えをさらに広げて解釈すると、対象の存在にある意味での「自分性」のようなものを見出すことができる。そこに自己を見出す、というか「それもすでに自己であった」ことを思い出すような。それらを包括する概念としては「縁(えにし)」という言葉がもっともしっくり来るような。
さらに言うと

いま、俺が「ある」「存在する」などの言葉を使うとき、そこには確かな身体性が伴っている。

俺が言葉を用いて指し示す対象は「存在性」というオーラを纏う。言葉の持つ機能や力を考えれば、このような効果が言葉に付与されるのは当たり前なのだが、この「当たり前」ゆえに、オーラを感じる力は失われて久しい。
February 19, 2025 at 8:02 AM
自分の中の

否認している自分
拒絶している自分


味わう
吟味する

それらの自分の雰囲気を味わい
カメラを色んな場所に動かして見てみる

からだは驚きのために、あけておいて
喉も軟口蓋も横隔膜も「何か」の準備をしたり、構えたりしない
その時の息をする
February 19, 2025 at 6:13 AM
「見る」という言葉のイメージにつきまとう指向性。これ自分が獲得(学習)したイメージを解体して、全方位的に解釈し直してみる。
というのも、内外を同時に見る必要があるから。
February 12, 2025 at 2:36 AM