ディゾルブがあったのではと気付かされた。思えば80年代以降のビデオ作品、90年代の作品ではディゾルブが多用されている。ゴダールは、なぜディゾルブにモンタージュの革新を見出したのか。それは切り返しという本来であれば交わっていない視線をあたがも見つめ合っているかのように見せる欺瞞に対して、映像を重ね合わせる/透かせるディゾルブは二つの視線は重なり合うことができるためではないか。この展示作品において、鑑賞者は揺れるスクリーンとの膜のあちらこちらなら照らされ、透かされていく光=映像の波のなかで、重なり合う映像と音響を自身の身体を通じて感覚することになる。
ディゾルブがあったのではと気付かされた。思えば80年代以降のビデオ作品、90年代の作品ではディゾルブが多用されている。ゴダールは、なぜディゾルブにモンタージュの革新を見出したのか。それは切り返しという本来であれば交わっていない視線をあたがも見つめ合っているかのように見せる欺瞞に対して、映像を重ね合わせる/透かせるディゾルブは二つの視線は重なり合うことができるためではないか。この展示作品において、鑑賞者は揺れるスクリーンとの膜のあちらこちらなら照らされ、透かされていく光=映像の波のなかで、重なり合う映像と音響を自身の身体を通じて感覚することになる。