辺境おぢ遺
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辺境おぢ遺
@oceanusossy.bsky.social
2010年代前半の古町を漂う亡霊です。
やすらぎ堤を歩いていても幸せは感じないが、長岡丘陵公園あたりで子供が楽しそうに遊んでいるのを見ているとそこそこ幸せを感じられる。
家族が喜んでくれる場所と自分が行きたい場所はしばしば異なるが、しばらくは前者全振りでいくしかないだろうな。
独身バイト医を続けながらシモマチの旧いマンションに住み、夕方から東堀-古町-西堀の小路や本町通りをブラブラするような生活は続けるのも悪くなかったかもしれない。
せんべろ系の店でハイボールを2-3杯ひっかけて、最後は遊歩で何曲か歌って帰る。

やすらぎ堤には行かない。幸せなそうな家族連れの姿を見ると寂しくなるから。もっとも今は家族がいるけど、やすらぎ堤に行ってもそれほど幸せだとは思わない。うちの家族は新潟市好きじゃなくて、嫌そうな顔するからね。
April 9, 2024 at 5:44 AM
独身バイト医を続けながらシモマチの旧いマンションに住み、夕方から東堀-古町-西堀の小路や本町通りをブラブラするような生活は続けるのも悪くなかったかもしれない。
せんべろ系の店でハイボールを2-3杯ひっかけて、最後は遊歩で何曲か歌って帰る。

やすらぎ堤には行かない。幸せなそうな家族連れの姿を見ると寂しくなるから。もっとも今は家族がいるけど、やすらぎ堤に行ってもそれほど幸せだとは思わない。うちの家族は新潟市好きじゃなくて、嫌そうな顔するからね。
April 5, 2024 at 5:08 AM
Xでコーヒーの話題が出て、ふと三越にあった鈴木コーヒーを思い出した。メインの客層がちょっとお上品なお母ちゃんで、スノッブな雰囲気が全然なくて。かといってただの喫茶スペースとは違ってしっかり仕事してた。
妻はここのショコラトルネド(コーヒーじゃない!というつっこみはなし)を気に入っていた。今ある伊勢丹のお店のじゃダメなんだって。
February 22, 2024 at 10:47 AM
1980年前後の出来事。家族で母の実家(新潟シモマチ)に泊まった時、消灯後に父がよく寝酒をしていた。瓶ビールとグラス、「肉のおおいわ」のスモークドビーフをお盆に載せ、枕元で飲むのが定番だった。

父がそんなにハイカラな物を買ってくるわけはないので、和裁職人だった祖母の趣味が反映されていたのであろう。ときどき目を覚ました私もスモークドビーフを味見させてもらったものだ。

いずれにせよ、なかなか贅沢だったと思う。今の私にはそんな贅沢はできそうにないや。
February 19, 2024 at 8:32 AM
【今はなき古町の店3】
ラ・アンドレ
raandore.jimdofree.com
このお店、最初に訪れたのは1997年くらい、まだ20歳そこそこだった頃。代ゼミの某全国区の先生が「大学入れたら飲みに連れてってやるよ」と言っていたのを真に受けお願いして、連れていっていただいたのがこのお店だった。「この店はたぶん、日本でベスト3に入るすごい店だと思う」と。
当時は旧いスタイルと厳しそうなマスターが苦手だったが、その後紆余曲折の末現職10年目くらいになってから、その凄さがわかった。酒が一滴も飲めない妻も「このお店だけは別格だ」と言っていた。
最後までこの店が似合う男にはなれなかったのが悔しい。
February 14, 2024 at 10:43 AM
【今はなき古町の店2】
SHOT BAR PAL
www.andkomachi.com/spot/gourmet...
俺の杜の前に、その場所で営業してたマスターが場所を変えてリスタートしたお店。リスタートには数年かかっており、マスターも、まぁいろいろとあったのだと思う。
小さなお店だったがお酒のチョイスが個性的で居心地がよく、同い年のマスターと「中高生時代に見たバブル時代の大人たち」みたいなどうでもよい話で盛り上がった。高校もそこそこに新潟を出て、横浜の某ホテルでバーテンダーの修行をはじめたマスターの話は別世界、惹き込まれた。ほどなく私が転勤となり、お店もクローズしたとのこと。残念。
February 14, 2024 at 10:10 AM
【今はなき古町の店】
Bar 俺の杜
www.week.co.jp/gourmet/1290...
この場所にあった他のお店がクローズしてしまい途方にくれていた時、佐藤マスターが俺の杜として復活させ通うようになった。院生フリーター時代だったのでお金は無かったが、人生経験豊富なマスターに教えを乞いながらガッツリ飲ませていただいた。ここで酔っ払って封切りしてもらったダグラスレインのポートエレンOLD & RAREは忘れられない。マスターと二人で味見して泣いた。尚、妻をはじめて連れていったbarもここだった。
February 13, 2024 at 2:44 PM
 県央基幹がネタにされている。個人的には(重症でもカバーできる分野はなるべく)断らない救急(を目指そう)という理解だったのだけど…
 ただ一つ心配なのは、トップはとても優秀な先生だが、いわゆる地域医療について表も裏も知り尽くし、各科の医者を引っ張ってこられる太い人脈があって…という方向では認知されていないこと。私たち末端が知らないだけで、実際にはバリバリの剛腕な先生なのかもしれないが。
February 11, 2024 at 12:44 PM
 今回の地震で、家への考え方が変わった。もちろんハザードマップを考慮した土地の選定や耐震仕様などは大切だけどダメな時はダメなので、いざとなったらパージできる程度の思い入れとコストにしておいた方がよさそう。
 自然災害によるダメージはもとより老後ADLが落ちれば住めなくなる日は来るし、子供たちの足枷になってもいけない。終の棲家にこだわりすぎず「当座安全快適に過ごせる場所に幾らコストを投入するか?」の感覚で臨むくらいでちょうどよいかな、と。
February 9, 2024 at 3:26 AM
ああ、初期(いうても私が始めたのは2020年からだが)のTwitterってこんな感じだったよな…。
threadsには違和感を感じたが、ここは過去へ戻ったような感覚がして何故だか心地よい。
February 8, 2024 at 11:45 AM
 転勤はないので来年度も現在の施設で続投。ただし、年度内に転居の予定あり。あんなに街に焦がれて中央区へ越してきたが、古町も万代も片手で収まるくらいしか行かないうちに都落ち?して近隣市町村に当面の住居を構えることに。
家族にとってはあまりbenefitがなかったこと、生活コスト高めなことが原因。私自身も結局は職場と寝床の往復で街を楽しむ余裕はなかった。
 窓から見えるNEXT21は、近いようで遠かったのだ。
February 8, 2024 at 4:20 AM
 専門医も学位も無かったし、収入は今の1/3くらいだった。妻や娘はもちろん彼女もおらず、いつも一人で彷徨い(昼は研究や診療に、夜は寝当直か下町の飲み屋で)歩いていた。
 それでも、あの時期は遅れてきた自分の青春時代であり、人生で巻き戻し再生してみたいと思う時間の最たるものだ。
 研修医時代は修行もさることながら、プライベートで辛いことがありすぎて正直あまり記憶がない。少しずつメンタルが回復し、多少の臨床能力がつき収入が得られるようになった2010年代に入ってようやく自分の記憶が現在と繋がった。
 前期出張を終えインチキ大学院生となり、シモマチに部屋を借りた。チャリで古町を通って大学の研究室に通ったあの頃。病棟フリーの間は自由と時間と多少の日銭はあったので、早々に研究室を抜け出してせんべろ的な店を探して飲み歩いていた。
 幼き日に祖父母に手を引かれ通った古道を、酔っぱらいながら自転車を押して歩き、当時の光景をスーパーインポーズさせながら懐かしんだ。
February 7, 2024 at 10:59 PM
 研修医時代は修行もさることながら、プライベートで辛いことがありすぎて正直あまり記憶がない。少しずつメンタルが回復し、多少の臨床能力がつき収入が得られるようになった2010年代に入ってようやく自分の記憶が現在と繋がった。
 前期出張を終えインチキ大学院生となり、シモマチに部屋を借りた。チャリで古町を通って大学の研究室に通ったあの頃。病棟フリーの間は自由と時間と多少の日銭はあったので、早々に研究室を抜け出してせんべろ的な店を探して飲み歩いていた。
 幼き日に祖父母に手を引かれ通った古道を、酔っぱらいながら自転車を押して歩き、当時の光景をスーパーインポーズさせながら懐かしんだ。
February 7, 2024 at 4:40 PM
Xもフォロー/フォロワー数が少なかった頃(COVID初期の混沌の時期と重なる)は、フォローしてる皆様の日記をチラチラ見るみたいな感覚だった。ポストするにも「誰も見てねーだろ」と割合好きなことが言えていたが、最近は少し気を遣うようになった。身内も見てることがわかってからは、なおさら。
February 7, 2024 at 2:19 PM
皆もすなる青空なるもののアカウントを作ってみた。
ここは仕事を離れた独り言スペースにしてみようかと。
※知り合いと思われる皆様、無断フォロー失礼いたします
February 7, 2024 at 2:09 PM