「どこまでもご一緒しますから、ねえ、もうすこしゆっくり歩いてください。今度こそ一緒に行けるように」
「わかった」
言葉こそぶっきらぼうに、でも指と指をしっかり組み合わせて、わたしたちは桜吹雪のむこうへと歩き出しました。
おわり
「どこまでもご一緒しますから、ねえ、もうすこしゆっくり歩いてください。今度こそ一緒に行けるように」
「わかった」
言葉こそぶっきらぼうに、でも指と指をしっかり組み合わせて、わたしたちは桜吹雪のむこうへと歩き出しました。
おわり
「はい」
こんなに待たせてこの言い方、と思わなくもないですが、優秀さゆえの我が儘を絵に描いたような男なので、仕方ないのです。
「天寿をまっとうされるまで待つつもりだったんですよ……ご家族もおられたのに」
わたしの手を取ってずんずん進む少年にそっと言うと、少年は鼻を鳴らしました。
「お前を見つけて必ず思い知らせてやろうと、それだけのために生きてきた。理由がなくなったら終わらせるのが道理だ。……お前を待たせてしまったし」
最後の声は、泣きじゃくるわたしに指輪をはめてくれた時のような、すまなさそうな声でした。
「でしたら」と腕を引くと、
「はい」
こんなに待たせてこの言い方、と思わなくもないですが、優秀さゆえの我が儘を絵に描いたような男なので、仕方ないのです。
「天寿をまっとうされるまで待つつもりだったんですよ……ご家族もおられたのに」
わたしの手を取ってずんずん進む少年にそっと言うと、少年は鼻を鳴らしました。
「お前を見つけて必ず思い知らせてやろうと、それだけのために生きてきた。理由がなくなったら終わらせるのが道理だ。……お前を待たせてしまったし」
最後の声は、泣きじゃくるわたしに指輪をはめてくれた時のような、すまなさそうな声でした。
「でしたら」と腕を引くと、
栗色の髪の男は桜の木の下に座ると、服の前をくつろげ、短刀を抜くと、ためらいもせず自分の腹に突き立てました。離れたところで見守る男たちが拳を震わせていました。倒れた男から流れたたくさんの赤いものが地面を濡らしました。
桜の木の下で、わたしはずっと見ていました。
倒れた男の体から、少年が立ち上がりました。栗色の髪の少年は、わたしをまっすぐに見ました。
栗色の髪の男は桜の木の下に座ると、服の前をくつろげ、短刀を抜くと、ためらいもせず自分の腹に突き立てました。離れたところで見守る男たちが拳を震わせていました。倒れた男から流れたたくさんの赤いものが地面を濡らしました。
桜の木の下で、わたしはずっと見ていました。
倒れた男の体から、少年が立ち上がりました。栗色の髪の少年は、わたしをまっすぐに見ました。
「お前はこの桜が好きだと言っていた。だからお前はここに埋めておく。もう少しだけ後始末をしたら今度こそ迎えに来るから、あと少しだけ待っていろ」
桜が三分咲きになるころ、わたし以外の屋敷の人骨はすべて回収されました。
桜が五分咲きになるころ、屋敷に人足が入りました。彼らは屋敷をどんどん崩していきました。
桜が八分咲きになるころ、屋敷はすっかり解体されました。高い壁も無くなりました。
そうそう、金朱と黒髪の少年たちを一度だけ見ました。つがいの鳥のような彼らは、奥の池と、桜の木の前でとくに長く手を合わせていました。
「お前はこの桜が好きだと言っていた。だからお前はここに埋めておく。もう少しだけ後始末をしたら今度こそ迎えに来るから、あと少しだけ待っていろ」
桜が三分咲きになるころ、わたし以外の屋敷の人骨はすべて回収されました。
桜が五分咲きになるころ、屋敷に人足が入りました。彼らは屋敷をどんどん崩していきました。
桜が八分咲きになるころ、屋敷はすっかり解体されました。高い壁も無くなりました。
そうそう、金朱と黒髪の少年たちを一度だけ見ました。つがいの鳥のような彼らは、奥の池と、桜の木の前でとくに長く手を合わせていました。
――俺のおばあさまの国では、首を噛んでめおとになる者もいると聞いた。俺とお前はきっとそれだ。
責任をとる、迎えに来る、だから泣くな、これは約束だ――そう言って少年は大切な指輪を子供の指にはめました。にぶい銀色の指輪は、さほど価値があるようにも見えなかったのでしょう。大人に踏み込まれ、栗色の少年と引き離されたあと、裏庭に連れて行かれ、目と口を塞がれて、首に縄が巻かれ、息の道がふさがって、全てが赤く黒くなって――気づいたらわたしはここに立っていました。
――俺のおばあさまの国では、首を噛んでめおとになる者もいると聞いた。俺とお前はきっとそれだ。
責任をとる、迎えに来る、だから泣くな、これは約束だ――そう言って少年は大切な指輪を子供の指にはめました。にぶい銀色の指輪は、さほど価値があるようにも見えなかったのでしょう。大人に踏み込まれ、栗色の少年と引き離されたあと、裏庭に連れて行かれ、目と口を塞がれて、首に縄が巻かれ、息の道がふさがって、全てが赤く黒くなって――気づいたらわたしはここに立っていました。
わたしたちはこの屋敷ではありふれた出来事のひとつでした。
この屋敷は色狂い病の貧しい子供を集め、身ぎれいにして、発作を耐えたら仕事をやると言い含めます。
英雄病の子供は十五になると、修練がどうのと言われ、この屋敷に連れて来られます。二人の子供は偶然のように一つの部屋に入れられ、英雄病の子供は色狂いの発作にあてられて相手を抱き、首を噛みます。
わたしたちがほんの少し違ったのは、いつも首を噛んだらすぐに大人が踏み込んで二人を引き離すのに、その日は屋敷の台所で小火が出たとかで、話をする時間があったことでした。
わたしたちはこの屋敷ではありふれた出来事のひとつでした。
この屋敷は色狂い病の貧しい子供を集め、身ぎれいにして、発作を耐えたら仕事をやると言い含めます。
英雄病の子供は十五になると、修練がどうのと言われ、この屋敷に連れて来られます。二人の子供は偶然のように一つの部屋に入れられ、英雄病の子供は色狂いの発作にあてられて相手を抱き、首を噛みます。
わたしたちがほんの少し違ったのは、いつも首を噛んだらすぐに大人が踏み込んで二人を引き離すのに、その日は屋敷の台所で小火が出たとかで、話をする時間があったことでした。
「……間違いない。母上から譲り受けた指輪だ……」
土に手をついたまま、男がぽつりと言いました。
「お前はずっとここにいたんだな……。絶対に迎えに来るから待っていろと大切な指輪を渡したのに、お前はそのまま消えた。お前は口止め料を貰って去ったと言われて、どうして信じてしまったのか。お前はあの夜、あれほど泣いて怯えていたのに」
男の前にしゃがみこみ、話しかけます。
「あなただって、我を忘れて男を襲うなど恥の極み、だから黙って知らないふりをしろ、なんて言われて、混乱していたでしょう。仕方ないですよ」
「……間違いない。母上から譲り受けた指輪だ……」
土に手をついたまま、男がぽつりと言いました。
「お前はずっとここにいたんだな……。絶対に迎えに来るから待っていろと大切な指輪を渡したのに、お前はそのまま消えた。お前は口止め料を貰って去ったと言われて、どうして信じてしまったのか。お前はあの夜、あれほど泣いて怯えていたのに」
男の前にしゃがみこみ、話しかけます。
「あなただって、我を忘れて男を襲うなど恥の極み、だから黙って知らないふりをしろ、なんて言われて、混乱していたでしょう。仕方ないですよ」
わたしの立つ桜の木の下からも骨が出ました。
すこし他と違っていたのは、骨の指に金属の輪がはまっていたことでしょうか。掘り返した人間がその輪を見て、別の人間になにかを言いました。その人間は慌てたように走っていきました。
それからしばらくして、一人の男がやってきました。壮年で、痩せた厳しい顔でした。背が高く、りっぱな軍服を着ていました。鼻が高く、目はとび色で、ほんの少し異国人の血が混ざっている男でした。かつて栗色だった髪は半分ぐらい白くなっていました。男はわたしの足元にある骨の前に膝をつき、
わたしの立つ桜の木の下からも骨が出ました。
すこし他と違っていたのは、骨の指に金属の輪がはまっていたことでしょうか。掘り返した人間がその輪を見て、別の人間になにかを言いました。その人間は慌てたように走っていきました。
それからしばらくして、一人の男がやってきました。壮年で、痩せた厳しい顔でした。背が高く、りっぱな軍服を着ていました。鼻が高く、目はとび色で、ほんの少し異国人の血が混ざっている男でした。かつて栗色だった髪は半分ぐらい白くなっていました。男はわたしの足元にある骨の前に膝をつき、
わたしは桜の下でずっと見ていました。
最初のつぼみが開くころ、屋敷に大勢の人間がやってきました。軍人の格好をしたその人々は、屋敷の大人を拘束し、おびえる子供たちの前で膝を折り、子供たちの手を引いて行きました。犬は姿を消していました。
屋敷は隅から隅までひっくり返すように調べられました。庭も掘り返されました。庭木の下から人骨が出て、たくさんたくさん出て、それでもっと騒ぎになりました。
わたしは桜の下でずっと見ていました。
最初のつぼみが開くころ、屋敷に大勢の人間がやってきました。軍人の格好をしたその人々は、屋敷の大人を拘束し、おびえる子供たちの前で膝を折り、子供たちの手を引いて行きました。犬は姿を消していました。
屋敷は隅から隅までひっくり返すように調べられました。庭も掘り返されました。庭木の下から人骨が出て、たくさんたくさん出て、それでもっと騒ぎになりました。
「手間かけさせやがって」「お前にいくらかけたと思ってやがる」
水を吸って膨れた子供の体は男たちが庭の奥に引きずっていきました。男たちはしばらくして手ぶらで帰ってきました。
「手間かけさせやがって」「お前にいくらかけたと思ってやがる」
水を吸って膨れた子供の体は男たちが庭の奥に引きずっていきました。男たちはしばらくして手ぶらで帰ってきました。
「行こう」
金朱の少年が黒髪の少年を背負います。そして自分のつけた足跡を逆向きに踏みながら桜のところまで戻ると、少年を木に登らせます。枝の端に来たらふたたび黒髪の少年は金朱の少年に背負われます。
金朱の少年は軽々と塀を飛び越えました。犬は塀の向こうにいましたが、金朱の少年が唸ると、あっというまに逃げていきました。二人はそのまま、嵐の向こうに姿を消しました。
「行こう」
金朱の少年が黒髪の少年を背負います。そして自分のつけた足跡を逆向きに踏みながら桜のところまで戻ると、少年を木に登らせます。枝の端に来たらふたたび黒髪の少年は金朱の少年に背負われます。
金朱の少年は軽々と塀を飛び越えました。犬は塀の向こうにいましたが、金朱の少年が唸ると、あっというまに逃げていきました。二人はそのまま、嵐の向こうに姿を消しました。
「養護院で亡くなった子供だ」ときょうじゅろうが囁きました。「流行り病だった。額は亡くなってから焼かせてもらった」
「ごめんな。ごめんな、ありがとう…」
二人はしばらく子供に手を合わせました。それから二人は子供の粗末な着物を脱がせ、たんじろうの着物を着せました。たんじろうはきょうじゅろうが持ってきた洋装に着替えました。きょうじゅろうは冷たい子供を背負って、庭の奥の池に向かいました。きょうじゅろうの足跡を踏みながら、たんじろうも池へ向かいました。
「養護院で亡くなった子供だ」ときょうじゅろうが囁きました。「流行り病だった。額は亡くなってから焼かせてもらった」
「ごめんな。ごめんな、ありがとう…」
二人はしばらく子供に手を合わせました。それから二人は子供の粗末な着物を脱がせ、たんじろうの着物を着せました。たんじろうはきょうじゅろうが持ってきた洋装に着替えました。きょうじゅろうは冷たい子供を背負って、庭の奥の池に向かいました。きょうじゅろうの足跡を踏みながら、たんじろうも池へ向かいました。
たんじろうはいつものように、世話役の大人に「庭に出てきまーす」と言いました。この子供が一日と欠かさず外遊びを好むことを知っている世話役は、片眉をあげて手を振りました。日焼けもあかぎれも気にしない、まったく野良育ちはこれだから、と無言でも呆れた様子でした。
たんじろうは桜のところに来ました。そこにきょうじゅろうがいました。きょうじゅろうは大きな――子供ほどもある袋を抱えていました。たんじろうにうなずくと、袋を開けました。
たんじろうはいつものように、世話役の大人に「庭に出てきまーす」と言いました。この子供が一日と欠かさず外遊びを好むことを知っている世話役は、片眉をあげて手を振りました。日焼けもあかぎれも気にしない、まったく野良育ちはこれだから、と無言でも呆れた様子でした。
たんじろうは桜のところに来ました。そこにきょうじゅろうがいました。きょうじゅろうは大きな――子供ほどもある袋を抱えていました。たんじろうにうなずくと、袋を開けました。
「きょうじゅろう!」と泣き笑いの顔で飛びつくたんじろうを、金朱の少年がぎゅっと抱きしめました。
それから二人は長い話をしました。人目を避けるように、ふとい桜の木の幹に隠れるようにして、長い長い話をしました。
「きょうじゅろう!」と泣き笑いの顔で飛びつくたんじろうを、金朱の少年がぎゅっと抱きしめました。
それから二人は長い話をしました。人目を避けるように、ふとい桜の木の幹に隠れるようにして、長い長い話をしました。
その子の部屋はすぐに片付けられました。なにごともなかったかのようでした。
その子の部屋はすぐに片付けられました。なにごともなかったかのようでした。
そうして年が明け、松の内が終わるころ、屋敷からひとりの子供が姿を消しました。たんじろうよりひとつ年上の子でした。年明けからどんどん匂いが強くなっていて、ああいよいよ試験なのだなと固唾を飲んで見守っていたら、ある日ふつりと匂いが消えて、姿も見えなくなりました。
「試験に合格して屋敷の外に出たんだよ」
みんなそう噂しました。大人たちもそう言いました。
そうして年が明け、松の内が終わるころ、屋敷からひとりの子供が姿を消しました。たんじろうよりひとつ年上の子でした。年明けからどんどん匂いが強くなっていて、ああいよいよ試験なのだなと固唾を飲んで見守っていたら、ある日ふつりと匂いが消えて、姿も見えなくなりました。
「試験に合格して屋敷の外に出たんだよ」
みんなそう噂しました。大人たちもそう言いました。
「もちろん!でも」とたんじろうが瞬きます。「なんで試験があるってわかるの?」
「……この冬、十五になった先輩が二人いるんだ」
きょうじゅろうは暗いまなざしでたんじろうを見ました。
「二人ともとても優秀な方たちだ。光栄にも、俺は彼らによく似ていると言われる……」
きょうじゅろうのまなざしに気圧されたように、たんじろうが「わかった」と頷きました。
「たぶんその子の次の発作はもうすぐだよ。発作の時期ってだいたいわかるんだ、みんな匂いがするから」
「もちろん!でも」とたんじろうが瞬きます。「なんで試験があるってわかるの?」
「……この冬、十五になった先輩が二人いるんだ」
きょうじゅろうは暗いまなざしでたんじろうを見ました。
「二人ともとても優秀な方たちだ。光栄にも、俺は彼らによく似ていると言われる……」
きょうじゅろうのまなざしに気圧されたように、たんじろうが「わかった」と頷きました。
「たぶんその子の次の発作はもうすぐだよ。発作の時期ってだいたいわかるんだ、みんな匂いがするから」
ちょっと残念だと笑う少年に、きょうじゅろうは笑みを返します。ひどくこわばったその笑顔にたんじろうが眉をひそめました。
「どうしたの? 寒い? もう帰ろうか」
「いいや。……なあ、ここでは君が一番年長なのか」
「ううん、ひとつ年上の子がひとりいるよ」
「その子も試験のことを言われてないか」
「えっ」とたんじろうが困った顔をします。「試験のことは絶対しゃべっちゃだめって言われてるんだ。ズルする子は仕事に出せないって」
「……そうか」
きょうじゅろうが強ばった目でたんじろうを見ます。
ちょっと残念だと笑う少年に、きょうじゅろうは笑みを返します。ひどくこわばったその笑顔にたんじろうが眉をひそめました。
「どうしたの? 寒い? もう帰ろうか」
「いいや。……なあ、ここでは君が一番年長なのか」
「ううん、ひとつ年上の子がひとりいるよ」
「その子も試験のことを言われてないか」
「えっ」とたんじろうが困った顔をします。「試験のことは絶対しゃべっちゃだめって言われてるんだ。ズルする子は仕事に出せないって」
「……そうか」
きょうじゅろうが強ばった目でたんじろうを見ます。
少しやつれたようなたんじろうは、それでも晴れやかな笑顔でした。
「発作だったんだ! だいぶきつかったけど、ちゃんと乗りこえられたよ!」
それでね、と嬉しそうに言います。
「次の発作のときに試験をすることになったんだ!」
「……それはどういう」
「俺にも分からない」とたんじろうが困ったように笑います。「でも発作のときに何があっても落ち着いてふるまえるかを見る試験だって言われたよ!」
少しやつれたようなたんじろうは、それでも晴れやかな笑顔でした。
「発作だったんだ! だいぶきつかったけど、ちゃんと乗りこえられたよ!」
それでね、と嬉しそうに言います。
「次の発作のときに試験をすることになったんだ!」
「……それはどういう」
「俺にも分からない」とたんじろうが困ったように笑います。「でも発作のときに何があっても落ち着いてふるまえるかを見る試験だって言われたよ!」
くちづけをしたのは金朱の少年のほうからでした。真冬の雪がちらつく日、たんじろうの頬についた雪をぬぐってやろうと手を伸ばし、そのまま吸いよせられるように顔を寄せていました。ふたりとも耳まで真っ赤になっていましたが、言葉はありませんでした。そりゃ、口を吸っていたら声は出ませんからね。
その翌日から、たんじろうは姿を見せなくなりました。きょうじゅろうは強ばった顔で、桜の枝から屋敷を見ていました。
くちづけをしたのは金朱の少年のほうからでした。真冬の雪がちらつく日、たんじろうの頬についた雪をぬぐってやろうと手を伸ばし、そのまま吸いよせられるように顔を寄せていました。ふたりとも耳まで真っ赤になっていましたが、言葉はありませんでした。そりゃ、口を吸っていたら声は出ませんからね。
その翌日から、たんじろうは姿を見せなくなりました。きょうじゅろうは強ばった顔で、桜の枝から屋敷を見ていました。
手放しの賛辞に黒髪の少年は照れくさそうに笑います。
秋の日暮れは早く、すでに西日が差しています。たんじろうは慌てたように言いました。
「そろそろ戻らなきゃ。点呼があるんだ。遅れると反省室で写経なんだ」
「そうか」
「……あのさ」
「また来る」ときょうじゅろうが言うと、黒髪の少年はぱあっと笑顔を浮かべました。
「うん! うん、またな!」
枝から飛び降りようとしたたんじろうがふと振り返ります。
「きょうじゅろうってさ、すごくいい匂いがするよな! 俺びっくりしちゃった!」
それじゃまた!と地面を駆けていく少年を見送って、きょうじゅろうも呟きました。
「……君もいい匂いだよ」
手放しの賛辞に黒髪の少年は照れくさそうに笑います。
秋の日暮れは早く、すでに西日が差しています。たんじろうは慌てたように言いました。
「そろそろ戻らなきゃ。点呼があるんだ。遅れると反省室で写経なんだ」
「そうか」
「……あのさ」
「また来る」ときょうじゅろうが言うと、黒髪の少年はぱあっと笑顔を浮かべました。
「うん! うん、またな!」
枝から飛び降りようとしたたんじろうがふと振り返ります。
「きょうじゅろうってさ、すごくいい匂いがするよな! 俺びっくりしちゃった!」
それじゃまた!と地面を駆けていく少年を見送って、きょうじゅろうも呟きました。
「……君もいい匂いだよ」
難しい試験なのかな、受からなかったらどうしよう、と顔を曇らせる少年に、きょうじゅろうは優しい顔を向けます。
「聞くかぎりでは、ここの生活は悪くなさそうじゃないか。それなのに早く試験を受けたいのか?」
「そりゃそうさ!」とたんじろうが意気込みます。「はやく一人前に働いて家族を安心させたい。仕送りをしたいんだ」
難しい試験なのかな、受からなかったらどうしよう、と顔を曇らせる少年に、きょうじゅろうは優しい顔を向けます。
「聞くかぎりでは、ここの生活は悪くなさそうじゃないか。それなのに早く試験を受けたいのか?」
「そりゃそうさ!」とたんじろうが意気込みます。「はやく一人前に働いて家族を安心させたい。仕送りをしたいんだ」
「俺みたいな病気の子供が十人ちょっとと、世話をしてくれる大人と、あと行儀作法の先生だよ! 表のほうにはもっとたくさん人がいて、犬もいっぱいいるけど、療養のために奥から出ちゃだめって言われてるんだ」
「ずっとここにいるのか?」
「ううん、しっかり肉がついて、発作をきちんと乗りこえられて、そして行儀作法が身についたら、ちょっとした試験があるんだって。それに合格したら、外のお屋敷でおつとめさせてもらえるんだと聞いたよ! 俺たちの病気に理解のある篤志家がいらっしゃるんだって」
「……そうか。試験とは何をするんだ?」
「俺みたいな病気の子供が十人ちょっとと、世話をしてくれる大人と、あと行儀作法の先生だよ! 表のほうにはもっとたくさん人がいて、犬もいっぱいいるけど、療養のために奥から出ちゃだめって言われてるんだ」
「ずっとここにいるのか?」
「ううん、しっかり肉がついて、発作をきちんと乗りこえられて、そして行儀作法が身についたら、ちょっとした試験があるんだって。それに合格したら、外のお屋敷でおつとめさせてもらえるんだと聞いたよ! 俺たちの病気に理解のある篤志家がいらっしゃるんだって」
「……そうか。試験とは何をするんだ?」
その問いに、きょうじゅろうは少しあごを引きます。
「わからない」
「そうなの?」
「ああ」と金朱の少年は屋敷のほうをじっと見ます。「世話になっている指導教官がおっしゃったんだ。お前はきっと十五になったら森の屋敷に行くのだろうな、と。詳しいことは教えて頂けなかったから、自分で調べてきた」
「へええ、すごいね!」
素直な賛嘆にきょうじゅろうが目を細めます。その鋭い目がたんじろうを向くとき、ずいぶん柔らかくなっているのに気づいたのは、きっとわたし以外にいなかったでしょう。
その問いに、きょうじゅろうは少しあごを引きます。
「わからない」
「そうなの?」
「ああ」と金朱の少年は屋敷のほうをじっと見ます。「世話になっている指導教官がおっしゃったんだ。お前はきっと十五になったら森の屋敷に行くのだろうな、と。詳しいことは教えて頂けなかったから、自分で調べてきた」
「へええ、すごいね!」
素直な賛嘆にきょうじゅろうが目を細めます。その鋭い目がたんじろうを向くとき、ずいぶん柔らかくなっているのに気づいたのは、きっとわたし以外にいなかったでしょう。
「番犬はどうしたの」
「にらんだら逃げていった」
「へええ」
最初は警戒に目を尖らせていたきょうじゅろうも、のんきなたんじろうに毒気を抜かれたのか、いつしか桜の枝に二人ならんで話をしていました。
「たんじろうはここで何をしているんだ」
「治療のための体力作りだよ!」
「治療?」
「そうだよ、色狂い病って知ってる?」
……聞えの悪い病名をあっけらかんと口にできるのがたんじろうの強みでしょうね。きょうじゅろうはじっと聞いていました。
「番犬はどうしたの」
「にらんだら逃げていった」
「へええ」
最初は警戒に目を尖らせていたきょうじゅろうも、のんきなたんじろうに毒気を抜かれたのか、いつしか桜の枝に二人ならんで話をしていました。
「たんじろうはここで何をしているんだ」
「治療のための体力作りだよ!」
「治療?」
「そうだよ、色狂い病って知ってる?」
……聞えの悪い病名をあっけらかんと口にできるのがたんじろうの強みでしょうね。きょうじゅろうはじっと聞いていました。