日下部克喜
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日下部克喜
@nekokusa222.bsky.social
Katsuyoshi Kusakabe | 文筆 Writer | 映画祭 Film festival | 猫 friend to cats | 思考空間 cat≒137 主宰
チャランポランでグウタラで無責任、気が向いたら寝て食べて、ときにひとが変わったように何かに没頭して、そうかと思うとまた寝てる、でもその寝顔はこの宇宙の全てを超越してるような、そんな存在がいるだけで、どんな世界であろうとも「いま、ここ」を肯定できる、のではないかという問いを立ててみようと思う。
January 14, 2026 at 1:29 PM
午前中、少し生業仕事をして、いそいそと家に帰ってきた。外は吹雪。体が芯から冷えて体調が良くないので、湯に浸かってすぐに布団に入る。布団のなかは安全地帯。
January 12, 2026 at 5:11 AM
感情という、目に見えないが確かに存在するもの一切が、仮にこの宇宙に「情報」として一定期間記録されるのだとすれば、たとえ人は亡くなってもその人がいたことに纏わる感情の動きは、その本人のものも含めてこの宇宙に留まる。だとすれば、それは人は亡くなっても確かに在り続けるのだということを、この私が考えることをこの宇宙が許していることにならないか。亡くなった人を日々考え、他者への共有を可能にする言語という形にすることで、亡くなったあともその人に纏わる情報を生産し続けることができ、すなわちそれは、死しても尚在る、を実現することになるのではないか。
January 11, 2026 at 9:37 AM
2、3度行ったことがある夢のなかでしか行けない飲み屋街があって、長屋というか横丁というか、数件並んだ飲み屋でカウンター席しかないのだけど、朝までやってる。2回ほど夜明けまでいたことがあって、現実世界の立地ではあの辺りというのはわかるが、当然そんなところに実際はない。が、夢のなかでなら確かにあって、ほんと何度か同じ場所が夢に登場するから、あっちの世界には確かにあるのだ。焼鳥の店と小籠包が美味い中華居酒屋がよく行く店。店主はいつも無口だが、出されるものはどれも美味いので、それをアテにしているとヘベレケになるまで飲んでしまう。すぐ近くの小道には、えらく高い壁の造り酒屋があって、見上げると青空がある。
January 10, 2026 at 1:41 PM
昨年公開された羅苡珊(ルオ・イシャン)監督の山岳ドキュメンタリー映画『雪解けのあと』と、呉明益『複眼人』は時空を超えたところで共鳴し合っているような気がしている。「死」と向き合っていくなかで、どこか同じところに繋がっていくような、なにか、これはなんだ。
January 5, 2026 at 10:33 AM
なんできょうからしごとなの? ずっといっしょにだらだらしてたらいいのに
January 5, 2026 at 10:18 AM
おふとんからでられない でたくないよ
January 2, 2026 at 11:50 PM
エーコの『薔薇の名前』が届いたその日に蕎麦も整った。鴨鍋でビールを呑ったあとに地元の手打ち蕎麦でエーコ読みながら地酒の熱燗でエーコを呑る。
December 31, 2025 at 12:06 PM
と、そんなことより、今日で生業のほうは仕事納め。原稿は今年中締切が一件と年明け五日までが二件で、休みがあるからって気を抜いてると慌てることになる(すでにちょっと慌てている)。手術後の痛みが続いていて本調子ではないけど、今日は少しだけビールを飲もう。およそひと月ぶりのビール。
December 29, 2025 at 10:34 AM
若いころ、コンサートに行くくらいには坂本龍一の音楽が好きだったことを思い出した(YMOはもっとずうっと好きだったが)。なんだか最近教授の露出が増えているせいか(映画とかNHKとか)、ちょっと気になってまた聴き出したら、とたんにずうっと聴いてるようになった。十代後半から二十代前半のころの空気というか、匂いみたいなものが漂ってるみたいで、過去という時間がいま耳元にある。いや、過去なんてまやかしで時間そのものが存在しないのかも。
December 29, 2025 at 10:30 AM
ベケットの『モロイ』『マウロン死す』『名づけられないもの』三作(宇野邦一訳)をようやく読み終わったが、読み始めからおよそ五年くらいかかったかもしれない。飽きるとこまで少し読んで、三ヶ月くらいほったらかして、また忘れた頃に読み出してを繰り返して、いままた『モロイ』から読み始めて、『名づけられないもの』から『モロイ』に戻ってくると、すごく読みやすく感じてしまって、すいすい読んでしまうから良くない。同じようにしてもう十年くらい(もっとか?)繰り返し読み続けているのが保坂和志『カンバセイション・ピース』。保坂和志のベケット好きと関係なしに、なんというか、気の向いたときにだらだら読むのがいい本て、ある。
December 28, 2025 at 3:06 AM
日々、自分が無知であることを実感しているが、限りある生のなかでは、読める本も見られる映画も聴ける音楽もたかがしれているわけで、しかも本なんて読んだそばから内容をほとんど忘れてしまうし(物を書くときはだからメモを取りまくるわけだが)、具体的な知識量なんてこれっぽっちも増えないし、増えたところでどうなるものではないから、ずうっと無知なままでいる状態を積極的に愛でていこうとおもう。
December 28, 2025 at 2:52 AM
無知を愛でる姿勢でいこうとおもう。
December 27, 2025 at 10:43 PM
かくれんぼ
December 27, 2025 at 10:36 PM
口の中を手術したばかりなので、ずっと歯ごたえのあるものは食べられなくて、もう3週間くらいお粥と雑炊とリゾットしか食べてなかったけど、今日は柔らかく煮たチキン(ローストチキン味)で初の固形食。服薬中だからまだアルコールも飲めないのでノンアルコロナだけど、これが意外といける。常食おいしい。色々工夫してくれた妻に感謝。
December 24, 2025 at 10:43 AM
ててこ と ててこ
December 22, 2025 at 1:25 PM
いつまでもみつめています おたがいに
December 11, 2025 at 1:05 PM
世の中への不安は尽きないけれど、とにかく朝はやってきて、生活がはじまるのだから、目の前にある世界を実直に生きたい。そんなふうにボンヤリと考えた日に見た三宅唱監督の『旅と日々』が、純粋になんの衒いもなく面白くて面白くて面白くて、と繰り返したくなる感情を抑えられないほどに面白くて、でもその面白さをひとに説明するための言葉にするのは難しくて、劇中で李さんが言うとおり、「言葉につかまってしまう」(だったかな、違うかもしれない)から、それを言ったそばから面白いとおもったキラキラした感情の輪郭は溶けていく。でもこういう時間があるだけで、なんとなく不安な世界に対抗できるような気がしてくる、不思議なことに。
December 8, 2025 at 1:26 PM
ゆきのあさ
December 6, 2025 at 11:37 PM
わかっているつもりになってそれを言葉にすると、いや「言いたいのはこれぢゃない」ってことが多くて、そういうときは相手に本来言いたかったことからずっと遠い「意味」しか伝わってなくて、でも言い淀みながら、自分でいま言ったばかりのことを否定したり、訂正したりしながら、必死に「言いたかったこと」に近づこうとするのだけどそれでもやはりなにも伝わってない、ほんとはそういうのが「対話」というもので、結局いつも私(たち)がしているのはお互いに「わかる」を前提にした形式的なやり取りでしかないのではないか、と思うことが昨日あった。
November 25, 2025 at 12:00 PM
東京一泊から帰宅。東京都写真美術館でペドロ・コスタの展示見て、ちょっとだけ文フリ行って(いぬのせなか座の山本浩貴さんの日記論は売り切れていて残念だったが、ご挨拶できて良かった)、仲間が配給している映画をポレポレ東中野で見て、また人と会って、草野なつかさんがいるゴールデン街の店で朝まで飲んだ喋った。店のドアを開けるとすっかり明けた夜があって、なんだか全てが白飛びしてるみたいで、現実感が薄い。いい一日だったなア。
November 24, 2025 at 6:51 AM
「現実は変えられない」からこそ、この「現実」のなかでサバイブするためだけに生きるのが「現実主義」というもので、多くの人がそれに囚われ、ゆえに苦しみ、その集合が世界全体に軋みを生み出している。お手軽に「現実」の綻びを暴き、偽りの「真実」によって自らの優位性に耽溺するのが陰謀論的なオカルティズムで、それは紛い物だ。「現実主義」に対抗できるのは、虚構そのもの、「現実」の前で全く意味をなさない無駄に見えるもの、つまりはフィクションという、想像力と思考の極めてタイトな繋がりと集積で、この世界を説明するためのコトバだ。私にとってそれは「人は死んでも生きている」ことを考え続けることだと思っている。
November 12, 2025 at 1:29 PM
若い頃というか、据付の35ミリ映写機にフィルムを掛けられるだけの、映写技師なんて到底言えるはずもないペーペーの頃、福岡の松本圭二さんを知って、詩人で映写技師(いまはフィルムアーキヴィストと呼ばれてるみたいだ)という肩書きにひどく憧れたものだ。一見すると異質に見えるけど、どちらの在り方もどこか遠くの方で繋がっていて、それがひとりの人のなかに共存というか、同時に在ることが、どこか特別な気がして、そこから見える世界にはとても興味があったのだ。映像作家あるいは映画監督でかつて映写機を回していたというひとは沢山いるが、詩人で映写技師はなかなかいないのではないか(私が不勉強なだけかもしれないが)。
November 10, 2025 at 12:16 PM
まどべにたたずむひと
November 6, 2025 at 1:24 PM
秋の空気と光線は、なにかの「予感」とか「予兆」をはらんでいるようで、それを冬と言ってしまったら、なにも見ていないし、なにも言葉にできていないから、立ち止まって、ただじいっとそれがやってくるのを待っている。
November 3, 2025 at 3:22 AM