ヴァージルはいつか同じ場所で握った、少女の手の温もりを思い出した。
教師になりたかった。子供は大人と同じだけ賢いが、経験不足で過つ。それを導きに行きたくて、私はこの手を離したのではないのか。
日の沈む川の向こうに未来はある。彼の罪をこちらの岸に残して。
「カリアティード」
少女は答えない。
「私はまだ、あなたの先生なのですね」
「先生、全然戻ってこなかったね。嘘つきだった」
「生徒でいるのに忙しかったのです」答えてから、ヴァージルはその先を呑んだ。「……申し訳ない」
ヴァージルはいつか同じ場所で握った、少女の手の温もりを思い出した。
教師になりたかった。子供は大人と同じだけ賢いが、経験不足で過つ。それを導きに行きたくて、私はこの手を離したのではないのか。
日の沈む川の向こうに未来はある。彼の罪をこちらの岸に残して。
「カリアティード」
少女は答えない。
「私はまだ、あなたの先生なのですね」
「先生、全然戻ってこなかったね。嘘つきだった」
「生徒でいるのに忙しかったのです」答えてから、ヴァージルはその先を呑んだ。「……申し訳ない」
「……あなたは、メディウムになりたかったのですか」
「わからない」
ゆっくりと、夕日が川の向こうへ落ちていく。
「でも他には何にもなれないよ、わたし」
「決めつけるのは良くないことです。何か面白いと思えることは他にないのですか」
「ないよ」
低く彼女は言い捨てる。ヴァージルは彼女に歩み寄った。影が伸びる。彼女の腕は切り傷と痣だらけだった。体罰の跡か、いじめの痕か、どちらもか。それを見られても、カリアティードは何も言わなかった。
「……私が昔ここに来るまで、何か他のことで遊んでいたでしょう」
「……あなたは、メディウムになりたかったのですか」
「わからない」
ゆっくりと、夕日が川の向こうへ落ちていく。
「でも他には何にもなれないよ、わたし」
「決めつけるのは良くないことです。何か面白いと思えることは他にないのですか」
「ないよ」
低く彼女は言い捨てる。ヴァージルは彼女に歩み寄った。影が伸びる。彼女の腕は切り傷と痣だらけだった。体罰の跡か、いじめの痕か、どちらもか。それを見られても、カリアティードは何も言わなかった。
「……私が昔ここに来るまで、何か他のことで遊んでいたでしょう」
「先生」
ヴァージルは左へさっと振り向いた。ばらばらの短い赤毛が風に揺れている。カリアティードの青白い顔に表情はなかった。あの激しく、移り気な少女のきらめきも。
「カリアティード」
「先生、わたしダメになっちゃった」
「ダメに?」
「メディウムになれないって。あの中のどの子よりもダメだって。だから追い出されたの。でもわたし、他のことなんて何にもできないの。だからもうダメなの。役立たずなんだって」
カリアティードは激することもなく、淡々と言った。
「……今は、どうしているのです」
「たいしたことない。孤児院の下働き。いつも怒られてる」
「先生」
ヴァージルは左へさっと振り向いた。ばらばらの短い赤毛が風に揺れている。カリアティードの青白い顔に表情はなかった。あの激しく、移り気な少女のきらめきも。
「カリアティード」
「先生、わたしダメになっちゃった」
「ダメに?」
「メディウムになれないって。あの中のどの子よりもダメだって。だから追い出されたの。でもわたし、他のことなんて何にもできないの。だからもうダメなの。役立たずなんだって」
カリアティードは激することもなく、淡々と言った。
「……今は、どうしているのです」
「たいしたことない。孤児院の下働き。いつも怒られてる」
一泊するつもりだったが、この町はもう彼に用はないと気づいた。せせらぎを聴いたら、落ち始めた夜を押して街道を隣町へ向かうつもりだった。一晩眠らず歩き続けるくらい、師匠のただ一人の弟子として旅をしていた頃からすれば、どうということもない。
一泊するつもりだったが、この町はもう彼に用はないと気づいた。せせらぎを聴いたら、落ち始めた夜を押して街道を隣町へ向かうつもりだった。一晩眠らず歩き続けるくらい、師匠のただ一人の弟子として旅をしていた頃からすれば、どうということもない。
孤児院に足が向きかけた彼は、しかし半ばで足を止めた。挫折もまた彼女の人生だ。エシュフォールが彼女はメディウムに向かないと判断したのなら、それは正しいのだろう。事実、シセルはメディウムになったのだ。
彼は聴力を失った左側、半分の静寂に耳を澄ました。教員免状の紙切れ一枚だけを手に戻ってきた、己の未熟を聴き取るように。子供とはいえ一人の人生に彼がかけられる言葉は、まだなかった。
孤児院に足が向きかけた彼は、しかし半ばで足を止めた。挫折もまた彼女の人生だ。エシュフォールが彼女はメディウムに向かないと判断したのなら、それは正しいのだろう。事実、シセルはメディウムになったのだ。
彼は聴力を失った左側、半分の静寂に耳を澄ました。教員免状の紙切れ一枚だけを手に戻ってきた、己の未熟を聴き取るように。子供とはいえ一人の人生に彼がかけられる言葉は、まだなかった。
髭の男は教え諭すような口調になった。また別の生徒に対するように。
「あの子はいまどこに」
「練習には来なくなった。孤児院にはいるだろう」
ヴァージルは礼を言って優れた師の前を辞した。相手の苦い視線を感じながら。
孤児院の子供はみな収入の足しに軽作業をさせられている。カリアティードがそれを免れたのは、彼女にメディウムの才能があるとみなされていたからだ。そうでなくなった今、彼女もまた他の子供と同様に働いているだろう。
髭の男は教え諭すような口調になった。また別の生徒に対するように。
「あの子はいまどこに」
「練習には来なくなった。孤児院にはいるだろう」
ヴァージルは礼を言って優れた師の前を辞した。相手の苦い視線を感じながら。
孤児院の子供はみな収入の足しに軽作業をさせられている。カリアティードがそれを免れたのは、彼女にメディウムの才能があるとみなされていたからだ。そうでなくなった今、彼女もまた他の子供と同様に働いているだろう。
「あの子供は何度言っても基礎を疎かにする。それは何より、生徒に悪い影響を与える」
エシュフォールは苦い口調だった。「なまじ才があるように見えるから質が悪い。見た目ばかり赤く、芯の腐った林檎を箱に入れておくのに等しい」
「…あの子はそういう子でした」
「そうなのだろうね。気にかけていたのもわかるよ。きみは慕われていたからな」
その言葉には刺以上の何か、優越感より蔑みに似た微かなニュアンスがあった。1人を除く生徒たちは、二人の教育者のどちらが優れていたのかすでに決着をつけていたのだ。
「孤児なのです。私に似たものを感じたのかもしれない」
「あの子供は何度言っても基礎を疎かにする。それは何より、生徒に悪い影響を与える」
エシュフォールは苦い口調だった。「なまじ才があるように見えるから質が悪い。見た目ばかり赤く、芯の腐った林檎を箱に入れておくのに等しい」
「…あの子はそういう子でした」
「そうなのだろうね。気にかけていたのもわかるよ。きみは慕われていたからな」
その言葉には刺以上の何か、優越感より蔑みに似た微かなニュアンスがあった。1人を除く生徒たちは、二人の教育者のどちらが優れていたのかすでに決着をつけていたのだ。
「孤児なのです。私に似たものを感じたのかもしれない」
「先生と師匠と、前の師匠のおかげだよ」
もう青年になったシセルは明るく笑う。
「あなたが頑張ったのですよ」
「先生、そういうとこ変わらないな」
「ところで、カリアティードは」
ヴァージルはふと問うた。「無沙汰を怒ってはいませんか」
「もういない」エストラが言った。「ね、エシュフォール先生」
その表情にヴァージルははっとした。2年前には見たこともなかった、残忍に勝ち誇るような卑しさがそこにはあった。これが少女の表情なのか?
「先生と師匠と、前の師匠のおかげだよ」
もう青年になったシセルは明るく笑う。
「あなたが頑張ったのですよ」
「先生、そういうとこ変わらないな」
「ところで、カリアティードは」
ヴァージルはふと問うた。「無沙汰を怒ってはいませんか」
「もういない」エストラが言った。「ね、エシュフォール先生」
その表情にヴァージルははっとした。2年前には見たこともなかった、残忍に勝ち誇るような卑しさがそこにはあった。これが少女の表情なのか?
ヴァージルは716の西にある大きな町の聾学校に声をかけられていた。一年半ぶりに立ち寄った町は、相変わらず埃っぽく貧しく、平穏だった。
「ヴァージル先生!」
子供の叫びが聞こえる。広場ではペンタイアとニケが手を振っていた。足を急がせる青年の足元にふいに赤い絨毯が広がる。
「腕を上げましたね」ペンタイアが現出させたレッドカーペットを踏み、兄弟子かつ若き師匠であった青年は広場に着いた。
「先生のおかげ」
ニケがエシュフォールを指す。
ヴァージルは716の西にある大きな町の聾学校に声をかけられていた。一年半ぶりに立ち寄った町は、相変わらず埃っぽく貧しく、平穏だった。
「ヴァージル先生!」
子供の叫びが聞こえる。広場ではペンタイアとニケが手を振っていた。足を急がせる青年の足元にふいに赤い絨毯が広がる。
「腕を上げましたね」ペンタイアが現出させたレッドカーペットを踏み、兄弟子かつ若き師匠であった青年は広場に着いた。
「先生のおかげ」
ニケがエシュフォールを指す。
「ね、カリアティード」
エシュフォールが訓練を始めても、青年は泣き続ける少女のそばにしばし立ち尽くしていた。
ヴァージルは一週間後、ほとんどないような荷物をまとめ、町長の弟に書いてもらった紹介状を手に旅立った。エシュフォールと年長の弟子達は見送りにきたが、孤児院からカリアティードは来なかった。
「ね、カリアティード」
エシュフォールが訓練を始めても、青年は泣き続ける少女のそばにしばし立ち尽くしていた。
ヴァージルは一週間後、ほとんどないような荷物をまとめ、町長の弟に書いてもらった紹介状を手に旅立った。エシュフォールと年長の弟子達は見送りにきたが、孤児院からカリアティードは来なかった。
「いい加減にしろ」
シセルが肩を掴んで引き剥がした。「お前のものじゃないんだよ先生は」
「もう先生でもありませんよ、シセル」
カリアティードはわっと泣き出した。走り去ろうとして転び、そのままへたり込んでいる。初めて彼女の涙を見た子供らはあっけに取られていた。
エシュフォールは顔をしかめていた。
ヴァージルはまた、立ち尽くしてしまった。彼女の前ではいつもこうだ。
「カリアティード。あなたが寂しがりなのは知っています。知り合いを一人失うのが、どれほどあなたにとって怖いことなのかも。ですが私は消えるわけじゃない。また会いに来ますよ、もちろん他のみんなにも」
「いい加減にしろ」
シセルが肩を掴んで引き剥がした。「お前のものじゃないんだよ先生は」
「もう先生でもありませんよ、シセル」
カリアティードはわっと泣き出した。走り去ろうとして転び、そのままへたり込んでいる。初めて彼女の涙を見た子供らはあっけに取られていた。
エシュフォールは顔をしかめていた。
ヴァージルはまた、立ち尽くしてしまった。彼女の前ではいつもこうだ。
「カリアティード。あなたが寂しがりなのは知っています。知り合いを一人失うのが、どれほどあなたにとって怖いことなのかも。ですが私は消えるわけじゃない。また会いに来ますよ、もちろん他のみんなにも」
青年の痩せた胴に、赤毛の少女がしがみついた。
「隣町に。私もまだ、生徒として教わらねばならないのです」
ヴァージルが静かに諭しても、カリアティードはなんで、どうしてと叫び続けるだけだった。
「きみ、もうよすんだ」
エシュフォールが呆れたように声をかける。
「あんたには聞いてない」
獣のような眼でカリアティードは男を睨み返した。
「失礼な口を利いてはいけません」
ヴァージルは低い声で叱った。その声に傷ついたようにキッと振り向き、少女はなおも叫んだ。
「うるさい!!じゃあ私も耳をダメにする、そしたらまた先生に教われるんでしょ!!」
青年の痩せた胴に、赤毛の少女がしがみついた。
「隣町に。私もまだ、生徒として教わらねばならないのです」
ヴァージルが静かに諭しても、カリアティードはなんで、どうしてと叫び続けるだけだった。
「きみ、もうよすんだ」
エシュフォールが呆れたように声をかける。
「あんたには聞いてない」
獣のような眼でカリアティードは男を睨み返した。
「失礼な口を利いてはいけません」
ヴァージルは低い声で叱った。その声に傷ついたようにキッと振り向き、少女はなおも叫んだ。
「うるさい!!じゃあ私も耳をダメにする、そしたらまた先生に教われるんでしょ!!」
男の声はしかし笑っていた。
「きみも察して交渉に来たんだろうが、打ち明ければ、私も大富豪というわけじゃない。『ローマ帝国』はしばらく崩れそうにないしな。うん、ロスタンの顔もあるし、交渉成立としようか」
その手を握ってから、少し意地悪く青年を見据えた。
「しかしきみ、初めは私を疑っただろう?」
ヴァージルは言葉に詰まった。
「失礼しました。しかし弟弟子のことですから」
「きみはいい教師になるよ、間違いない」
昨日のメディウム、エシュフォールが新たな師になると聞き、子供達は興奮と困惑の入り混じる顔をした。
男の声はしかし笑っていた。
「きみも察して交渉に来たんだろうが、打ち明ければ、私も大富豪というわけじゃない。『ローマ帝国』はしばらく崩れそうにないしな。うん、ロスタンの顔もあるし、交渉成立としようか」
その手を握ってから、少し意地悪く青年を見据えた。
「しかしきみ、初めは私を疑っただろう?」
ヴァージルは言葉に詰まった。
「失礼しました。しかし弟弟子のことですから」
「きみはいい教師になるよ、間違いない」
昨日のメディウム、エシュフォールが新たな師になると聞き、子供達は興奮と困惑の入り混じる顔をした。
「私は師匠に付き従っていただけの身。戦う未来も選べなかった。メディウムになりたいと思って修業する子供達に、教えられることはあまりにも少ない。ただ一番年上の弟子だっただけで、師の代わりにはなりようもないのです」
「なるほど。きみは歳の割に立派だが、天性のメディウムの訓練者ではないのかもしれない」男は穏やかに言った。「しかしきみはどうするつもりだ?これで食ってるんだろう?」
「隣の市の奨学金に応募したいと思っていたんです」
ヴァージルは淡々と、思い描く未来を語った。聾学校の数学教師になりたいと。
「私は師匠に付き従っていただけの身。戦う未来も選べなかった。メディウムになりたいと思って修業する子供達に、教えられることはあまりにも少ない。ただ一番年上の弟子だっただけで、師の代わりにはなりようもないのです」
「なるほど。きみは歳の割に立派だが、天性のメディウムの訓練者ではないのかもしれない」男は穏やかに言った。「しかしきみはどうするつもりだ?これで食ってるんだろう?」
「隣の市の奨学金に応募したいと思っていたんです」
ヴァージルは淡々と、思い描く未来を語った。聾学校の数学教師になりたいと。
ヴァージルは固唾を飲んでいた。男は師匠の友に間違いなかった。彼もまた師に足る人格を持つ者。
少なくともその時のヴァージルはそう思った。
その夜、街で唯一の安宿に泊まった彼をヴァージルは尋ねた。
「私の代わりに、あの子達を教えていただけませんか」青年は単刀直入に切り出した。
「正直に申し上げて、大した収入にはなりません。ですが町議会も、私に払うより上積みは出すでしょう」
ヴァージルは固唾を飲んでいた。男は師匠の友に間違いなかった。彼もまた師に足る人格を持つ者。
少なくともその時のヴァージルはそう思った。
その夜、街で唯一の安宿に泊まった彼をヴァージルは尋ねた。
「私の代わりに、あの子達を教えていただけませんか」青年は単刀直入に切り出した。
「正直に申し上げて、大した収入にはなりません。ですが町議会も、私に払うより上積みは出すでしょう」
「そこの一番でかい、きみ。さっきはなかなかの腕だったね。きみなら炎を出せるだろう。避け方を実演してやるから、少しやってみてくれ」
シセルはヴァージルを見た。ヴァージルは頷いた。少年は緊張した面持ちで男に向かう。
掌から青い爆炎が噴き出した。男はさっと帽子で受け止める。そのまま帽子を一回転させると、炎はすべて飲み込まれた。子供達は悲鳴をあげた。
「すごい!」「一瞬だ!」「シセル、危ないぞ!」
「弟弟子の方に炎が回らないように気をつけたね。いい判断だ」男はシセルを褒め、子供らに向き直る。
「そこの一番でかい、きみ。さっきはなかなかの腕だったね。きみなら炎を出せるだろう。避け方を実演してやるから、少しやってみてくれ」
シセルはヴァージルを見た。ヴァージルは頷いた。少年は緊張した面持ちで男に向かう。
掌から青い爆炎が噴き出した。男はさっと帽子で受け止める。そのまま帽子を一回転させると、炎はすべて飲み込まれた。子供達は悲鳴をあげた。
「すごい!」「一瞬だ!」「シセル、危ないぞ!」
「弟弟子の方に炎が回らないように気をつけたね。いい判断だ」男はシセルを褒め、子供らに向き直る。
やや胡散臭い物腰に比して、男は分かる範囲では、かなり誠実に戦いの様子を語っていた。
子供達は皆夢中で食いついている。憧れのメディウムが、新聞に載るような激戦を生き抜いたメディウムが目の前にいて、その様子を自分達だけのために語っているのだ。田舎の地道な訓練しか知らない彼らにとって、それは夢の扉が突然現れたに等しかった。
やや胡散臭い物腰に比して、男は分かる範囲では、かなり誠実に戦いの様子を語っていた。
子供達は皆夢中で食いついている。憧れのメディウムが、新聞に載るような激戦を生き抜いたメディウムが目の前にいて、その様子を自分達だけのために語っているのだ。田舎の地道な訓練しか知らない彼らにとって、それは夢の扉が突然現れたに等しかった。
「学習会か!なるほど、そうきたか。私も子供は好きなんだ。うん、呼んできてくれ」
ヴァージルが立ち上がると、そうそう、と男は呼び止めた。
「あの変な像はなんだ?」
「ああ、一人、少し機嫌を悪くした子がいまして。今連れ帰ったので直させるところです」
「あれが悪戯か?」
男は妙に不快そうに呟いた。
「学習会か!なるほど、そうきたか。私も子供は好きなんだ。うん、呼んできてくれ」
ヴァージルが立ち上がると、そうそう、と男は呼び止めた。
「あの変な像はなんだ?」
「ああ、一人、少し機嫌を悪くした子がいまして。今連れ帰ったので直させるところです」
「あれが悪戯か?」
男は妙に不快そうに呟いた。
男の背後の汚い窓から、子供の顔がいくつか見え隠れし始めている。
「旅の途上なのさ、行くあてもなくね。ミュルーズ東の戦争(コンペ)の結果は知らないか」
「『ローマ帝国』が勝ったと聞いています」
「そうだ。私は『星々の夜』で戦(や)っていた側だった」
負けた物語のメディウムは世界の異物だ。少なくともその物語が支配する地域に、居場所はなくなる。
「だいぶ追われてるんですか」
「いや、ここまでは来ないね。だがしばらく大きいことはできないだろう」
「そのコンペの様子、伺ってもいいですか」
ヴァージルが窓を見やると、顔が慌てて引っ込んだ。
男の背後の汚い窓から、子供の顔がいくつか見え隠れし始めている。
「旅の途上なのさ、行くあてもなくね。ミュルーズ東の戦争(コンペ)の結果は知らないか」
「『ローマ帝国』が勝ったと聞いています」
「そうだ。私は『星々の夜』で戦(や)っていた側だった」
負けた物語のメディウムは世界の異物だ。少なくともその物語が支配する地域に、居場所はなくなる。
「だいぶ追われてるんですか」
「いや、ここまでは来ないね。だがしばらく大きいことはできないだろう」
「そのコンペの様子、伺ってもいいですか」
ヴァージルが窓を見やると、顔が慌てて引っ込んだ。
男は大仰にヴァージルを褒めた。
「師匠が遺したものを守っているだけです」
「しかし新しい子も取ってるだろう?」
「まあ、誰かが教えねばなりませんから」
「しかしきみ自身も大した腕だろうに、どこの『ストーリーテラー』とも契約していないのか?」
「私は耳が悪いのです。遠くない将来、何も聞こえなくなるでしょう」
ヴァージルは静かに答えた。答え慣れている。
「現実干渉で治らないレベルなのか」
「神経の病ですので」
「そうか」
男はまた居心地悪そうに体を揺すった。
男は大仰にヴァージルを褒めた。
「師匠が遺したものを守っているだけです」
「しかし新しい子も取ってるだろう?」
「まあ、誰かが教えねばなりませんから」
「しかしきみ自身も大した腕だろうに、どこの『ストーリーテラー』とも契約していないのか?」
「私は耳が悪いのです。遠くない将来、何も聞こえなくなるでしょう」
ヴァージルは静かに答えた。答え慣れている。
「現実干渉で治らないレベルなのか」
「神経の病ですので」
「そうか」
男はまた居心地悪そうに体を揺すった。
「先生、お客さん来てるぜ。師匠の友達だって」
広場の端、天使像の隣の木に凭れて、黒い帽子の男が立っていた。ヴァージルはカリアティードの手を離し、男に近づいた。男は帽子を脱いで一礼する。少し見せつけがましい優雅さがあった。
「きみがロスタンの一番弟子か」
広場横の公民館の狭い一室で、ヴァージルはなけなしの茶を出した。
「きみには会ったことがあるよ。まだ10歳くらいだったか」
「そうでしたか。私の記憶が曖昧なようで、申し訳ありません」
「きみにとっては大昔だろう。気にすることはない」
口髭を生やした体格の良い男は、木の椅子に居心地悪げに収まった。
「先生、お客さん来てるぜ。師匠の友達だって」
広場の端、天使像の隣の木に凭れて、黒い帽子の男が立っていた。ヴァージルはカリアティードの手を離し、男に近づいた。男は帽子を脱いで一礼する。少し見せつけがましい優雅さがあった。
「きみがロスタンの一番弟子か」
広場横の公民館の狭い一室で、ヴァージルはなけなしの茶を出した。
「きみには会ったことがあるよ。まだ10歳くらいだったか」
「そうでしたか。私の記憶が曖昧なようで、申し訳ありません」
「きみにとっては大昔だろう。気にすることはない」
口髭を生やした体格の良い男は、木の椅子に居心地悪げに収まった。
カリアティードはつぶやいた。
「え?」
「直せばいいんでしょ、エストラにごめんなさいしろってことでしょ。いいよ、行こう、行くから」
少女は立ち上がって身軽に駆けてくる。ヴァージルの右側に立ち、勝手に手を繋ぐ。細い汚れた手は生気に満ちて温かかった。
「まあ、いいや。先生の秘密知ったから」
「秘密にしていたつもりはありませんが」
ふふん、と少女は年増の女のように笑った。
カリアティードはつぶやいた。
「え?」
「直せばいいんでしょ、エストラにごめんなさいしろってことでしょ。いいよ、行こう、行くから」
少女は立ち上がって身軽に駆けてくる。ヴァージルの右側に立ち、勝手に手を繋ぐ。細い汚れた手は生気に満ちて温かかった。
「まあ、いいや。先生の秘密知ったから」
「秘密にしていたつもりはありませんが」
ふふん、と少女は年増の女のように笑った。
少女は青ざめた顔で師匠の顔を見た。
「私が言いたいことは、もうわかりますか」
「先生も孤児だったの」
「言いませんでしたか」
「言ってないよ。先生の言うこと、忘れるわけないもん」
「……私にはしばらく父がいたので、あなたとは少し違うのかもしれません。ですが、カリアティード、その能力も、あなたの両親があなたに残したものだ。それを大事にしてほしいと、私は勝手に思うのです」
「勝手に?」
「ええ、決めるのはあなたしかいない。確かにそれはあなたの能力なのだから」
少女は青ざめた顔で師匠の顔を見た。
「私が言いたいことは、もうわかりますか」
「先生も孤児だったの」
「言いませんでしたか」
「言ってないよ。先生の言うこと、忘れるわけないもん」
「……私にはしばらく父がいたので、あなたとは少し違うのかもしれません。ですが、カリアティード、その能力も、あなたの両親があなたに残したものだ。それを大事にしてほしいと、私は勝手に思うのです」
「勝手に?」
「ええ、決めるのはあなたしかいない。確かにそれはあなたの能力なのだから」