🏳️🌈bian🏳️⚧️ally
あなたのシリウス
わたしたちは選挙後も発言し、デモをし、抗う。
それを「筋が通らない」と封じることこそ、
自由な社会の土台をじわじわ削っていく。
わたしたちは選挙後も発言し、デモをし、抗う。
それを「筋が通らない」と封じることこそ、
自由な社会の土台をじわじわ削っていく。
民主教育がどこかで機能していない証かもしれない。
投票=すべてを委ねること、ではない。
むしろ「あとからも声を出していい」ことが、民主主義の本領のはずだ。
民主教育がどこかで機能していない証かもしれない。
投票=すべてを委ねること、ではない。
むしろ「あとからも声を出していい」ことが、民主主義の本領のはずだ。
それは民主主義ではなく“選挙教条主義”になる。
デモ・請願・抗議――どれも制度に声が届かないときの正当な手段だ。
選挙がすべてという前提自体がすでに偏っている。
(参政党に投票した人がその後その選択を後悔した時、デモに参加することが矛盾しているだろうか?常に人は流動的だ)
それは民主主義ではなく“選挙教条主義”になる。
デモ・請願・抗議――どれも制度に声が届かないときの正当な手段だ。
選挙がすべてという前提自体がすでに偏っている。
(参政党に投票した人がその後その選択を後悔した時、デモに参加することが矛盾しているだろうか?常に人は流動的だ)
「この人がいなくなると歯止めがなくなる」という感覚は本質的に正しい。
多数決は権力の集中ではなく、抑制のために使うもの。
だからこそ、投票していない人の声にも意味がある。
「この人がいなくなると歯止めがなくなる」という感覚は本質的に正しい。
多数決は権力の集中ではなく、抑制のために使うもの。
だからこそ、投票していない人の声にも意味がある。
わたしたちの感情や評価軸はもっと多層的だ。
その濁りや揺れを“矛盾”として切り捨てることこそ、制度と感情の乖離を深める。
声を出すことは、制度に収まりきらない感情の出口でもある。
わたしたちの感情や評価軸はもっと多層的だ。
その濁りや揺れを“矛盾”として切り捨てることこそ、制度と感情の乖離を深める。
声を出すことは、制度に収まりきらない感情の出口でもある。
投票は一票の比較選択にすぎない。
たとえば「高市政権はもっと危ういから石破に留まってほしい」というのは、後出しでも矛盾でもなく、戦略的リアクションだ。
投票は一票の比較選択にすぎない。
たとえば「高市政権はもっと危ういから石破に留まってほしい」というのは、後出しでも矛盾でもなく、戦略的リアクションだ。
制度上、有権者は「自民党の誰を首相に」とは投票できない。
「石破に入れなかった」=「石破に不信任」という読みは、選挙行動をあまりにも単純に捉えすぎてる。
制度上、有権者は「自民党の誰を首相に」とは投票できない。
「石破に入れなかった」=「石破に不信任」という読みは、選挙行動をあまりにも単純に捉えすぎてる。