https://lucius-note.net/byzantinemap/
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Historical Maps of the Byzantine Empire 330-1453 (in English) http://lucius-note.net/byzantium/
こうして見るとバシレイオス2世の没後も無為な人物が帝位にあったとは言えないだろう。ただ、帝国は各所で防御的な戦闘にさいなまれることになり勝っても得るものがなく、費用が掛かるばかりのようだったらしい。さらに権威もない皇帝たちは権威を「ばらまき」によって買うしかなく、財政はひっ迫することになったという。
こうして見るとバシレイオス2世の没後も無為な人物が帝位にあったとは言えないだろう。ただ、帝国は各所で防御的な戦闘にさいなまれることになり勝っても得るものがなく、費用が掛かるばかりのようだったらしい。さらに権威もない皇帝たちは権威を「ばらまき」によって買うしかなく、財政はひっ迫することになったという。
ミカエル4世は兄弟とともにペチェネグ・イスラム教徒に対応し巧みに帝国を守ったという。さらにシチリアの回復も図りマニアケスを派遣するが、郡内の対立でマニアケスは逮捕、後任はブルガリアでペタル・デリャンの反乱が起こって、呼び戻された。その甥のミカエル5世は完全に方針を誤り、短命政権となってしまった。
ミカエル4世は兄弟とともにペチェネグ・イスラム教徒に対応し巧みに帝国を守ったという。さらにシチリアの回復も図りマニアケスを派遣するが、郡内の対立でマニアケスは逮捕、後任はブルガリアでペタル・デリャンの反乱が起こって、呼び戻された。その甥のミカエル5世は完全に方針を誤り、短命政権となってしまった。
「帝国史上最も優れた軍事戦略家の一人で、衝動的な面はあったものの、抜け目のない政治家でもあった。」
と評価が高い。そして、「ニケフォロスが異民族と行った取引の後始末をつけた」と述べる。非カルケドン派のシリア教会との確執を寛容な政策で埋め、
神聖ローマのオットー1世との争いをオットー2世に身内を嫁がせ解消し、ニケフォロスの誘因策でブルガリアにやってきたルーシのスヴャトスラフを退けた。
「帝国史上最も優れた軍事戦略家の一人で、衝動的な面はあったものの、抜け目のない政治家でもあった。」
と評価が高い。そして、「ニケフォロスが異民族と行った取引の後始末をつけた」と述べる。非カルケドン派のシリア教会との確執を寛容な政策で埋め、
神聖ローマのオットー1世との争いをオットー2世に身内を嫁がせ解消し、ニケフォロスの誘因策でブルガリアにやってきたルーシのスヴャトスラフを退けた。
そして、ニケフォロス弑逆の計画はバシレイオス・ラカペノスがいただろうとする。こう見ると、テオファノは悪女に仕立てられた被害者だろうという感想。ニケフォロスはアトス山の修道院設立を支援したため、やがて殉教聖人として扱われるまでに至った。
そして、ニケフォロス弑逆の計画はバシレイオス・ラカペノスがいただろうとする。こう見ると、テオファノは悪女に仕立てられた被害者だろうという感想。ニケフォロスはアトス山の修道院設立を支援したため、やがて殉教聖人として扱われるまでに至った。
「飢餓を起こさせ、貿易を封鎖し、要塞を明け渡さないイスラム教徒、アルメニア人、シリア人は捕らえられたら斬首すると知らせるよう指示していた。」
といい、「計画的な、国家が後押しした暴力だった。」とする。
ブリンガスは有能な行政官であったが、「逆境で世論に迎合する能力がなかった」ため、ニケフォロスに破れる。
。「ニケフォロスは優れた将軍であったにもかかわらず、悪い政治家であることが判明し、その人気は主に首都で過ごした 968 年に史上最低に達した。」として、親族の退廃などを描く。
「飢餓を起こさせ、貿易を封鎖し、要塞を明け渡さないイスラム教徒、アルメニア人、シリア人は捕らえられたら斬首すると知らせるよう指示していた。」
といい、「計画的な、国家が後押しした暴力だった。」とする。
ブリンガスは有能な行政官であったが、「逆境で世論に迎合する能力がなかった」ため、ニケフォロスに破れる。
。「ニケフォロスは優れた将軍であったにもかかわらず、悪い政治家であることが判明し、その人気は主に首都で過ごした 968 年に史上最低に達した。」として、親族の退廃などを描く。
征服軍は歩兵12,000人と騎兵6,000人で「6世紀にユスティニアヌスが派遣した軍隊よりも規模が大きく、費用もかかった。帝国の収入は年間200万から300万ノミスマ(推測)程度で、そのほとんどは帝国の人口の約1%を占める常備軍に費やされた。」という。
10世紀には兵役義務の財政化がはじまったという。現金を国家に収めて兵役に変えるやり方である。このあたり、いろんな地域でよくみられるなあという感想で、役を金納にするのは中国でも王安石の新法や他の時代にもある。
征服軍は歩兵12,000人と騎兵6,000人で「6世紀にユスティニアヌスが派遣した軍隊よりも規模が大きく、費用もかかった。帝国の収入は年間200万から300万ノミスマ(推測)程度で、そのほとんどは帝国の人口の約1%を占める常備軍に費やされた。」という。
10世紀には兵役義務の財政化がはじまったという。現金を国家に収めて兵役に変えるやり方である。このあたり、いろんな地域でよくみられるなあという感想で、役を金納にするのは中国でも王安石の新法や他の時代にもある。
レオン6世の四婚で決裂していた教会はロマノス1世の治世下で和解することになる。3回目は特別な事情がある場合に限り認められ、4回はいかなる場合も認められないということで決着した。四婚で生まれたコンスタンティノス7世にとっては屈辱である。
ブルガリアとの和平で、東方への拡大に力を入れられるようになったという。ヨハネス・クルクアスはローマ帝国の領土を二倍にしたと評され、その8巻に及ぶ賛美の史書が書かれたともいわれる。
レオン6世の四婚で決裂していた教会はロマノス1世の治世下で和解することになる。3回目は特別な事情がある場合に限り認められ、4回はいかなる場合も認められないということで決着した。四婚で生まれたコンスタンティノス7世にとっては屈辱である。
ブルガリアとの和平で、東方への拡大に力を入れられるようになったという。ヨハネス・クルクアスはローマ帝国の領土を二倍にしたと評され、その8巻に及ぶ賛美の史書が書かれたともいわれる。
旧説に言う聖像破壊ではなかったとする著者のこと、ここでは聖像崇敬派が構築したイメージとしての聖像破壊を否定したということだろう。
四婚問題について、結局、3人目までの結婚では後継となる男子を得られず、4人目のゾエとの結婚でようやく後継者コンスタンティノスを得ることになる。これについて総主教ニコラオスと対立し、結局、反逆者に協力したという罪を口実に罷免している。
旧説に言う聖像破壊ではなかったとする著者のこと、ここでは聖像崇敬派が構築したイメージとしての聖像破壊を否定したということだろう。
四婚問題について、結局、3人目までの結婚では後継となる男子を得られず、4人目のゾエとの結婚でようやく後継者コンスタンティノスを得ることになる。これについて総主教ニコラオスと対立し、結局、反逆者に協力したという罪を口実に罷免している。
「バシレイオスは東部でも攻撃的な戦略を追求し、大きな成功を収めた。」としている。パウリキア派を破り、アラブとの抗争でも優位に立った。
バシレイオスはダビデを意識していたという。ダビデが「羊小屋から王位についた」ことと自身の境遇を重ね合わせたらしい。そうやって王者としてのイメージを培ったのだという。
「バシレイオスは東部でも攻撃的な戦略を追求し、大きな成功を収めた。」としている。パウリキア派を破り、アラブとの抗争でも優位に立った。
バシレイオスはダビデを意識していたという。ダビデが「羊小屋から王位についた」ことと自身の境遇を重ね合わせたらしい。そうやって王者としてのイメージを培ったのだという。
もちろんKaldellisが参照したデータと岩波講座の当該論稿が参照したデータの質の違いについては当然、考慮しないといけないけれど。
もちろんKaldellisが参照したデータと岩波講座の当該論稿が参照したデータの質の違いについては当然、考慮しないといけないけれど。