Lucius
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Lucius
@lucius330511.bsky.social
いろんな地域・時代の歴史に興味があります。史学科卒(東洋史)。ビザンツ帝国歴史地図、330年から1453年まで40枚をサイトに上げています。
https://lucius-note.net/byzantinemap/
冊子版は https://lucius.booth.pm/items/3225595
Historical Maps of the Byzantine Empire 330-1453 (in English) http://lucius-note.net/byzantium/
以上、長くなりましたが、『The New Roman Empire』7部、要点整理と拙い感想等の垂れ流しでした。
October 10, 2024 at 4:46 AM
コンスタンティノス9世モノマコスはゾエ・テオドラ姉妹に選ばれて、ゾエと結婚し帝位についた。カルデリスは「彼の役割に対する評価は否定的であるが、それはプセロスによる彼の治世の戯画化に過度に影響されている。」と述べ、再評価している。そして各方面からの侵攻、陰謀に効果的に対処したことについて述べる。
こうして見るとバシレイオス2世の没後も無為な人物が帝位にあったとは言えないだろう。ただ、帝国は各所で防御的な戦闘にさいなまれることになり勝っても得るものがなく、費用が掛かるばかりのようだったらしい。さらに権威もない皇帝たちは権威を「ばらまき」によって買うしかなく、財政はひっ迫することになったという。
October 10, 2024 at 4:45 AM
ロマノス3世は、シリア教会に対する寛容な政策から方向転換したという。それまでの60年間についてシリア語の史料には「ツィミスケスとバシレイオス2世に対する賞賛に満ちている」らしい。そういえばバシレイオス2世はブルガリアでも、租税の物納を許すなど、現地の状況を考慮した統治をしていた。
ミカエル4世は兄弟とともにペチェネグ・イスラム教徒に対応し巧みに帝国を守ったという。さらにシチリアの回復も図りマニアケスを派遣するが、郡内の対立でマニアケスは逮捕、後任はブルガリアでペタル・デリャンの反乱が起こって、呼び戻された。その甥のミカエル5世は完全に方針を誤り、短命政権となってしまった。
October 10, 2024 at 4:45 AM
称号や官職を餌にブルガリアの有力者をサムイルから引きはがしたという。かの有名なクレイディオンの戦後処理についても、盲目にされたブルガリア兵捕虜の数は明らかに誇張されているとカルデリスは述べている。そのあだ名のブルガロクトノスも12世紀まで確認されていないという。結婚しなかったことについては、スクレロスの助言のエピソードはあるが、説明が欠けているとする。このあたり四婚までして後継者を得ることに執着したレオン6世とはずいぶん違うという印象。ちょっとテューダー朝みを感じてしまった。イタリアでもバシレイオス治世下でローマの勢力は絶頂に達したという。
October 10, 2024 at 4:45 AM
バシレイオス2世治世前期の内戦について、カルデリスは「紛争の長さ、範囲、激しさは独特で共和政末期の内戦を彷彿とさせる」と述べる。ただ、「ローマ政体は中核でははるかに安定していた」とも述べる。退役軍人への土地を確保しなくてはならない共和政期の軍閥と違い、兵士への供給は確保され、また、君主政は反乱側より多くの資源と忠誠を獲得できたというのである。バシレイオスは貴族に階級闘争を仕掛けたわけではなく単にけん制しただけだったとする。記録が祝なく内政史を復元しにくく、軍事活動についても1014から1018を除いて詳細が判然としていないらしい。
October 10, 2024 at 4:44 AM
エスコリアル・タクティコンから帝国の東西国境での軍事体制の改革にも触れる。東方遠征に関しては、十字軍的なものではなく、略奪的、一時的なものとしてる。私個人としてはヨハネス1世ツィミスケスは好きな皇帝だが、この軍事的にも秀で、政治にもバランス感覚を発揮するあたり、相当な人物だったと思う。
October 10, 2024 at 4:44 AM
ヨハネス1世については、
「帝国史上最も優れた軍事戦略家の一人で、衝動的な面はあったものの、抜け目のない政治家でもあった。」
と評価が高い。そして、「ニケフォロスが異民族と行った取引の後始末をつけた」と述べる。非カルケドン派のシリア教会との確執を寛容な政策で埋め、
神聖ローマのオットー1世との争いをオットー2世に身内を嫁がせ解消し、ニケフォロスの誘因策でブルガリアにやってきたルーシのスヴャトスラフを退けた。
October 10, 2024 at 4:44 AM
「ニケフォロスを嫌っていたかツィミスケスを愛していたテオファノが、彼に帝位を奪取するよう誘ったというが、そのような話は最初から噂話であった。」という。
そして、ニケフォロス弑逆の計画はバシレイオス・ラカペノスがいただろうとする。こう見ると、テオファノは悪女に仕立てられた被害者だろうという感想。ニケフォロスはアトス山の修道院設立を支援したため、やがて殉教聖人として扱われるまでに至った。
October 10, 2024 at 4:43 AM
ニケフォロスはクルクアスの戦術に倣ったという。
「飢餓を起こさせ、貿易を封鎖し、要塞を明け渡さないイスラム教徒、アルメニア人、シリア人は捕らえられたら斬首すると知らせるよう指示していた。」
といい、「計画的な、国家が後押しした暴力だった。」とする。
ブリンガスは有能な行政官であったが、「逆境で世論に迎合する能力がなかった」ため、ニケフォロスに破れる。
。「ニケフォロスは優れた将軍であったにもかかわらず、悪い政治家であることが判明し、その人気は主に首都で過ごした 968 年に史上最低に達した。」として、親族の退廃などを描く。
October 10, 2024 at 4:42 AM
その後も、こうした土地法制は続けられるため、状況は継続していたと考えられるというが、結局、この時期の土地の分配の推移などはデータとして残っていないという。貴族というよりも土地を集めたのは「修道院・教会」であった可能性が高いとカルデリスはいう。
October 10, 2024 at 4:42 AM
さて、これにより、次の懸念が生まれる。兵役に行かず武具を売り、富裕農民になってしまうのではという懸念であるという。また、「兵士の土地」を固定化して譲渡を禁じる法もコンスタンティノス7世により出される。「兵士の土地が「権力者」の所有するより大きな領地に吸収されるのを防ぐ」目的であった。土地の兼併を防止する法はロマノス1世時代から出されており、それは大土地所有者に飢饉などの際に土地を買いたたかれる事例がありこれを防止しようとするものであった。
October 10, 2024 at 4:42 AM
950年からの東部での拡大は20年戦争となったという。
征服軍は歩兵12,000人と騎兵6,000人で「6世紀にユスティニアヌスが派遣した軍隊よりも規模が大きく、費用もかかった。帝国の収入は年間200万から300万ノミスマ(推測)程度で、そのほとんどは帝国の人口の約1%を占める常備軍に費やされた。」という。
10世紀には兵役義務の財政化がはじまったという。現金を国家に収めて兵役に変えるやり方である。このあたり、いろんな地域でよくみられるなあという感想で、役を金納にするのは中国でも王安石の新法や他の時代にもある。
October 10, 2024 at 4:41 AM
コンスタンティノス7世の編纂事業については「必ずしも成功しておらず、有用でもなく、優雅なものでもなかった。」と手厳しい。百科全書主義とされることもあるが、厳密にはその事業は古典と同時代文書を集めてアンソロジー化し、再編成したものだったする。10世紀の復活したローマ政体をそれ以前のローマ史(コンスタンティヌスとユスティニアヌスの栄光の時代に直結させ、その後の敗北や聖像破壊の年月を跳び越すことがこの編纂事業の目的だったという。ただ『儀式の書』や『帝国統治論』には失われていたであろう情報を保存していて貴重な資料となっているとを述べ、次世代に『スーダ』として結実する編纂方法には価値があったとする。
October 10, 2024 at 4:40 AM
ロマノスの治世は自分の息子たちのクーデタで幕を閉じたが、それは、コンスタンティノス7世が継承者として予定されていたためだろうとする。コンスタンティノス7世は「フォカス家、アルギュロス家、タロニテス家、都の人々、アマルフィのコミュニティ」から指示を得たらしい。そして、コンスタンティノス7世を帝位につかせるようはかったのはフォカス家ではなかったかとする。
October 10, 2024 at 4:39 AM
アレクサンドロスはレオン6世に罷免されていた総主教ニコラオスを復位させ、ニコラオスはアレクサンドロスのモザイクをハギア・ソフィアにつくらせた。
レオン6世の四婚で決裂していた教会はロマノス1世の治世下で和解することになる。3回目は特別な事情がある場合に限り認められ、4回はいかなる場合も認められないということで決着した。四婚で生まれたコンスタンティノス7世にとっては屈辱である。
ブルガリアとの和平で、東方への拡大に力を入れられるようになったという。ヨハネス・クルクアスはローマ帝国の領土を二倍にしたと評され、その8巻に及ぶ賛美の史書が書かれたともいわれる。
October 10, 2024 at 4:39 AM
かわりにエウテュミオスを総主教としたが、レオン6世はあくまでも懺悔者として扱われることになり、「礼拝のあいだ、聖域に立ち、座るという皇帝の権利を失った」という。また、『戦術書』の編纂について、西方の挑戦に対する不安への対応だったとする。『エイサーゴーゲー』はユスティニアヌス朝の法律を40の見出しで要約し、おそらくフォティオスが書いただろうと推測する。「皇帝の地位を定義し、法律に従わせ、その機能を奉仕の観点から定義しようとする」「準憲法的試み」だったという。
October 10, 2024 at 4:38 AM
レオン6世の章で、マケドニア朝についてイサウリア朝の聖像破壊、モーセ的傾向を脱しようとした新興王朝だったとしている。
旧説に言う聖像破壊ではなかったとする著者のこと、ここでは聖像崇敬派が構築したイメージとしての聖像破壊を否定したということだろう。
四婚問題について、結局、3人目までの結婚では後継となる男子を得られず、4人目のゾエとの結婚でようやく後継者コンスタンティノスを得ることになる。これについて総主教ニコラオスと対立し、結局、反逆者に協力したという罪を口実に罷免している。
October 10, 2024 at 4:38 AM
西方ではシチリアから軸足を南イタリアに移したといい、シチリアからの難民で、カラブリアのギリシア語話者の数が膨れ上がったという。
「バシレイオスは東部でも攻撃的な戦略を追求し、大きな成功を収めた。」としている。パウリキア派を破り、アラブとの抗争でも優位に立った。
バシレイオスはダビデを意識していたという。ダビデが「羊小屋から王位についた」ことと自身の境遇を重ね合わせたらしい。そうやって王者としてのイメージを培ったのだという。
October 10, 2024 at 4:33 AM
ところでこの時期、姓を名乗る有力な家系が現れるようになったが、それは封建領主ではなかったとカルデリスは言う。「軍務につく家族の伝統を育む軍人だった」とする。その「地位は役職、給与、称号に由来し、皇帝の意のままに奉仕した。」とのことである。この「役職・給与・称号」は、11世紀の諸帝がバラマキにつかうところにもなるのは本文の当該時期の記述を読めば明らかになる。さて、フォティオスを解任した彼だが、これについては教皇とのやりとりにおいて、結局自らの方針をローマに承認させ「自らの正当性を新秩序の中核に据えた」という。
October 10, 2024 at 4:33 AM
そういえば確か、第3期の『岩波講座世界歴史13 西アジア・南アジアの帝国』にはオスマン帝国の人口が2200万と書いてあった気が……あまり変わらんではないかという驚き。ビザンツは全盛期の人口密度が高かった?
もちろんKaldellisが参照したデータと岩波講座の当該論稿が参照したデータの質の違いについては当然、考慮しないといけないけれど。
September 7, 2024 at 4:06 PM
さてまた『The New Roman Empire』では、当時、全人口の20%が寡婦だったと言い、その多くが亡夫の財産を管理していただろうとする。その状況で女性は恐るべき経済主体だったという。そしてさらにKaldellisは「中には制度を巧みに利用し、「女性の弱さ」に関する固定観念を有利に利用する者もいた。例えば、強要されて行われた取引や、後に不利になった取引を取り消すために、固定観念を援用した者もいた。」と述べる。
September 7, 2024 at 2:41 PM