高橋宏和
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高橋宏和
@hirotaka84.bsky.social
字が書けない自分と懸命に闘っている。字が書けないときわめて不便である。まだ、望みを捨ててはいない。
 しょせん、日記みたいな、日々の簡単な作業である。

 大半がタブレットを使うのでアプリのメモ帳を探した。文字数をカウントしてくれることと、ほかのiPadでも共有したい。

 探すのは、かなり楽しい。さらに、いきあたりばったり、一度だけの課金でいいというので、いくつか購入して使ってみた。落ち着いたのは、いまのところ、評判が高いアプリである。

 デジタルの世界は、ちょっとぼんやりしているだけで置いてけぼりをくらう。ついていくだけでも大変だ——などと書きながら、新しいアプリの使い勝手をたしかめている。

 今回はアタリだったようだ。80歳もなかば過ぎながら、まだ、くらいついていられるらしい。
December 14, 2025 at 12:18 PM
千年の昔から人は変わっていないとわからせてくれたのが『今昔物語集』である。
わけもなく気分が落ち込んでしまったので、いくつかの古典を現代語訳で読んでいる。
『今昔——』は、たあいのない説話集ながら楽しめる。
狐に化かされたり、隠れ里があったりして、楽しく引き込まれている。
November 19, 2025 at 10:31 PM
若いころから対人関係で、いつも摩擦を生じてきた。換言すれば嫌われてきた。若いころに敵を作った未熟ぶりは思い当たる。

生意気だというだけで、秀才たちから嫌われ、不良どもからは目のかたきにされた10代だった。当時は油断があった。

長じてからは嫌われるにまかせてきた。目立たないように過ごすすべがわからないからだ。

理不尽だが、とても疲れる。年齢とともに摩擦を避けてきた。それでも、相変わらず嫌われてしまう。

出る杭は打たれるという。出てなどいなのにだれかを不快にしてしまうらしい。どこかに隙があるのだろう。

本人に悪意はまったくない。それでも嫌われる。老いてからはあきらめるしかあるまい。
June 28, 2025 at 2:43 AM
暑さをさほど深刻に感じない。この梅雨のあいまが真夏なみに暑いのはわかる。
散歩のときなど、もっと早い時間に散歩しようとおもう。だが、切実ではない。

この3日ばかり、やたら疲れているらしい。横になりたいからだ。
切実ではないし、深刻に感じてはいないが、80歳の身体に暑さがじわりと効いているのだろう。

SNSに投稿しようという意欲が湧いてこない。それより、ベッドで横になっていたい。
ただ、フェイスブックへの投稿はわが家の“生命線”である。

朝晩の投稿が、愚息に対し、ぼくがまだ生きている証になっている。
投稿がとだえたらひとり暮らしのぼくに異変が生じている。SNSのわが家なりの活用法である。
June 22, 2025 at 9:19 AM
猫の態度が、日によってくるくると変わるのは知っていた。

わかったつもりでいながら、生後8か月のパトラにすっかり翻弄されている。

たしかなのは、ぼくとの距離がかなり近くなったことだろう。だが、まだ、全面的にパトラがぼくに心を開いたわけではない。

キスをしようとして、顔を近づけると、たくみにかわされてしまう。これは、心を開いた猫の態度ではない。

それ以上に、きのうの態度がきょうも同じではない。

お気に入りの場所もその日によって変わる。変わらないのは、せいぜい、お気に入りのオモチャくらいだ。

昨夜、ぼくに寄り添って、いっとき、寝てくれたからといって、今夜も同衾はしてくれないだろう。
June 21, 2025 at 9:18 AM
「わが家の猫自慢」になりかねないので黙っていたいのだが、「猫のお利口さ」は認めてやりたい。

猫のご飯を作るときとぼくの夕飯を作るとき、生後8か月の猫のパトラを廊下に出す。特に後者の場合、ガスを使うから危険である。なおさらキッチンへ近づくのは遠慮してもらいたい。

偶然ではあろうが、パトラのご飯をぼくが作るとき、そして、ぼく自身の夕飯を作り出すと、パトラはさっさと廊下へ出ていく。もう4、5日同じことを繰り返している。

自慢するつもりではないが、飼い主としては、とても偶然とは思えない。念のためにもう一度……決して自慢ではありません。
June 19, 2025 at 1:16 PM
子猫のバトラがわが家にやってきて、あすでひと月になる。最初のころはとても用心深くて、どこかへ入りこんでしまい、大半を隠れていた。目もきつかった。

最近は隠れなくなり、顔もすっかり温和だ。気が向くと遊ぼうとねだってくる。だが、まだわずかに用心しているらしい。全面的に心を許しているわけではあるまい。

数値的には80から90パーセントほど心を開いたものの、100パーセントならこんなものではないはずだ。

パトラ、全面的に心を開いてくれるその日を待っているからね。
June 17, 2025 at 9:53 AM
 寝たときに見る夢はほとんどが悪夢である。若いころからそうだった。目覚めると、ほとんど忘れているが、きっと明け方に見た悪夢なのだろう。夢の中の断片的なシーンを覚えていて、ひどく疲れてしまう。

 できたら夢など見たくない。だが、生きているかぎり、毎晩、夢に翻弄される眠りについている。悪夢から解放されるのであれば、死ぬのも悪くないとさえ思うときがある。

 ごくまれに、穏やかな夢をみる。そんな日の朝は、目覚めも快適である。今朝がそうだった。休むつもりの朝の散歩にも出かけた。一日中、ご機嫌とまではいわないが、平穏に流れていく。
June 14, 2025 at 6:43 AM
 もう、元の身体には戻らないだろう。なんせ80歳だ。

 腰を痛めて立ってさえいられなかったころ、そう覚悟した。あとは、どこまで元へ戻せるかだった。下肢の、とりわけ歩くための筋肉が落ちてしまったのも承知している。

 以前であれば、多少の無理で強制的に失った筋肉を復活できるはずだった。しかし、もう昔の常識は通用しない。無理がきかなくなってしまったのを、歩きはじめて知った。

 少しずつ、そして、だましながら身体と折り合っていく年齢である。元どおりになれるかどうかはわからないが、どうやら、ある程度の復活は望めそうだ。

 ただし、思いのほか時間はかかる。80歳だ。しかたがない。
June 13, 2025 at 7:34 AM
 雨が幸いして、今朝の散歩は3千歩に届かなかった。昼寝(昼前だが)は、脚の痛みで目覚めた。

 ほんとうに痛みがあったのかどうかあやしい。痛みは夢だったかもしれない。

 琵琶湖のほとりの町の、キャンプ仲間が上京するという。ぼくは、しばらく都心まで出かけていない。腰や足に自信がないからだ。

 もう、20年前からのこの旧友がいつごろ上京してくるのかはわからない。会いたいけど、きっと、都心まで出ていかれないだろう。

 腰の痛みはまったくないが、明らかに筋肉が減少してしまった。いまはそちらのほうが深刻である。元どおりになってくれるのだろうか。

 80歳の年齢の、わが身を思うと疑わしい。
June 11, 2025 at 6:52 AM
 先月の18日に貰い享けたから、まだ1か月にはなっていない子猫である。日々、彼女との距離が縮まっていると実感できる。

 しかし、途中で発情期を迎えてしまった。発情した猫はかわいそうである。

 きのうをピークに、どうやら“恋猫状態”からは脱したらしい。さて、子猫とぼくとの距離感はどうなるのかと思ったら、後退はしていない。目覚めていれば遊びたがる。

 生後8か月、まだまだいたずらがひどいのはしかたがないだろう。

 今年の梅雨は子猫に翻弄されてしまうようだ。それもまた年寄りには快感でしかない。
June 10, 2025 at 8:07 AM
 経験したことのない疲れに辟易している。単なる筋肉の疲れだろうか。2月から3か月間、ほとんど外へは出なかった。

 歩く距離を縮小したが、5月は、毎日、けっこう歩いた。その疲れが出てきたのだろうか? それとも陽気のせいかな?

 以前なら、さらに歩いて疲れなどねじ伏せていたが、80歳ともなると用心するにこしたことがない。とりあえず、今朝の、恒例の「6,000歩散歩」はサボった。身体を休めたいと思ったからである。

 その代わり、少し遠いほうのスーパーマーケットまで買い物に出かけた。3,000歩を歩いている。明日の朝、散歩をどうするかは、朝、起きてから決めたい。これも80歳のたしなみだ。
June 5, 2025 at 5:59 AM
 きのう、ひょんなことから、「老鶯や老いては声もつくろはず」という句を知った。

 蝶夢という江戸時代の俳人が残した句だという。いたく気に入り、この句をはじめて知った老翁のほうは、これからの座右の銘にしようと決めた。

 老鶯とは、字義のとおり、春を過ぎても鳴く、老いたウグイスである。残鶯、晩鶯、老鶯児ともいい、季語は夏になるそうだ。

 声に張りがなくなるというが、実際には鳴き方が慣れて、巧みなウグイスである。

 なればこそ、「つくろわず」に生きていきたい。老いのけじめであり、美学だと思うからだ。せめて、しゃしゃり出ないようにして余生とやらを歩いていこう。
June 3, 2025 at 7:46 AM
 子ネコとの生活がはじまって、昨日で2週間になった。毎日が新鮮で驚いている。

 何が新鮮かというと、子ネコとの距離が、日々、縮まっているからだ。

 10月に生まれたので、まだ、7か月余りの子である。しかし、ネコは自立を強いられ、共同生活者のぼくが安全な相手かどうかを観察し、少しずつだが、急速に警戒を解いている。

 わが家の子になって10日ほどで、抱いて寝てやれるようになったのが、ぼくには何よりもうれしい。

 話しかけるだけでも、また、それがネコだろうと、相手が身近にいるだけで満たされる。

 用意してやったオモチャにも気に入ってくれたらしい。まずは、順調な子ネコとの生活である。
June 2, 2025 at 8:27 AM
 あれほどなついてくれていたのに、腰痛で3か月間、ごぶさたしていたので、コグロと名づけたカラスは、すっかり、ご機嫌を害してしまったらしい。

 カラスにもそんな情緒があるとわかり、ますますコグロがかわいくなった。

 最初の見立てどおり、コグロは女の子で相棒のほうが男の子だろう。2羽ともずいぶん大きくなった。相棒のほうは、ハシブトガラスらしく、額のあたりが特徴的になっている。コグロは、まだ、やさしげな額だし、全身がしなやかで、いかにも女性的である。

 朝、コグロが現れるときは川の中洲からやってくる。今年は、産卵し、子育てに至っていないのだろうか?

 それより、もうご機嫌をなおしてほしい。
May 16, 2025 at 5:13 AM
 まもなく、わが家にかわいい子ネコがやってくる。20年ばかり前までネコを飼っていたので、ネコの可愛さはよくわかっている。

 最近のネコ用グッズのあれこれの進化には驚くばかりだ。とくにネコ用のハーネス(胴輪)など、以前は見かけなかった。首輪だけだとネコは器用に外してしまう。しかも、ネコ用のハーネスはかなりかわいい。

 ネコだって外が見たいだろうに、最近、ネコは家の中で飼うというのが常識になっている。とくにここ町田市はそうらしい。

 今朝、ネコを散歩させているご婦人に出逢った。わが家へくる子も外へ出たがったら、素敵なハーネスをつけて一緒に散歩するつもりだ。それもまたかなり楽しみ!
May 14, 2025 at 9:42 AM
夜、珍しく愚息がやってきた。1月に冥土とやらへ帰らぬ旅に出てしまった母親の遺影に花を届けにきたという。一日遅れの、彼なりの母の日である。

父親のオレが死んでも、このせがれは知らん顔だろう。いや、気恥ずかしいからそのほうがいい。

やはり、母親への思いは特別なものがあるのだろう。父親としてはそのほうがうれしいし、なぜだか、ホッとできる。
May 12, 2025 at 2:42 PM
 曜日の感覚がますます稀薄になってきた。今朝は二度も間違えている。

 散歩のとき、やけにクルマが少ないなと思い、きょうが週末だったと気づいた。しかし、土曜日だと早合点した。日曜日と認識できたのは、土曜日に世話になっているサンドイッチ屋のシャッターが下りていたからだ。

 土曜日のきのうは、雨のために終日、外へ出なかった。昨日は、その日が土曜日だというのはわかっていたのに、今朝はきれいに失念している。何曜日だろうと、ほぼ、関係のない日常生活である。

 ただ、週末や祭日はスーパーマーケットへいかないようにしている。じゃまな男性が結構いるからだ。もっとも、現役時代の自分もそのひとりだったけど。
May 11, 2025 at 8:38 AM
 今朝、いつも使っている古いiPadに6年前の動画が流れてきた。女房と、彼女に駆け寄った当時8歳の愛犬である。たまたま撮れただけの予期しなかった動画だった。

 ほどなく、女房は入院して、かけがえのないふたりは離ればなれになった。大好きなママを失い、犬はいかにも寂びしそうだった。癌となり、手術の甲斐なく、一昨年旅立った。ぼくは涙に暮れた。

 今年1月、女房が逝った。彼女を現世まで迎えにくるために犬は先発ったのだろう。

 まもなく、ぼくの元へ子猫がやってくる。今朝の動画は、「わたしたちは再会できて満ち足りているわよ」との妻からのメッセージだろう。

 ぼくも現世で猫と幸せにならなくては!
May 10, 2025 at 7:16 AM
 ぼくのFacebookに、つい最近、亡くなった友人が訪れている。きっと、ご遺族が履歴か何かでたどり着いたのだろう。

 ぼくよりも4つばかり若いナイスガイだった。彼の死に対し、まさか——との思いが、いまもぬぐえずにいる。

 同じFacebookで、昨年、やはり亡くなった別の畏友が頻繁にぼくを窺っているらしい。最初は、やはり、「ご遺族かな?」と思っていたのだが、いまだにのぞいている。

 もしかしたら、ぼくへは死んだことにして、本当は生きているのかもしれない。

 だからといって、「なぜ?」と思うまでもないだろう。ぼくが嫌われただけだ。

 それなのにのぞきにくるのがわからない。なぜ……?
May 9, 2025 at 10:27 AM
 60年連れ添った妻を冥土へと送り出した。大仕事がすみ、もう、いつ死んでもいいと思っていた。ところが、わが家へ子猫がやってくることになった。亡妻の姪が子猫を買ってくれるというのだ。

 明日をも知れぬ年齢なので、生きものとの生活などできないはずだ。だが、ぼくが不帰の旅へ出てしまったら、その猫は姪たちが引き取ってくれるという。

 子猫を迎える準備をすっかり終えた。だが、この年寄りを相手にしなくてはならない子猫が不憫で、すっかり落ち込んだ。

 こうなったら、猫のために、簡単には死ねない。長生きするしかあるまい。できるかどうかわからないが、がんばって生きてみようという気になった。
May 8, 2025 at 9:08 AM
 きのうの夜から、決して浅くはない憂悶に囚われている。かつて、どんなピンチのときにだって経験していない心の沈み方である。

 原因がようやくわかった。今月末にわが家へやってくる子ネコである。ひとり暮らしのぼくは、まだ見ぬ子ネコがすでにそこにいるのを想定して、ずっと語りかけている。しかも、声に出してだ。

 もう、受け入れ準備は整い、ワクワクしながら待ちわびているのである。

 反面、子ネコに心からすまないと思う。いくらでも幸せになれるはずなのに、ぼくのような年寄りと暮らさなくてはならない。不憫である。

 だが、ぼくは子ネコを待っている。なんとも罪深い、そんな自分への嫌気からの煩悶である。
May 7, 2025 at 9:46 AM
 雨の一日だった。例年、ゴールデンウィークはおおむねピーカンの青空なのに、GWを過ぎるとたちまち雲が湧き、雨が降ったり、大風の日が続いて梅雨の気配が濃厚になる。

 今朝も勇んで起き出したが、泣き出しそうな空にたちまち気持ちが萎えてしまい、散歩にいかなかった。昼ごろになって、傘を差し、足を濡らして買い物に出かけた。

 いつもより財布が軽くなった。今月終わりにやってくる猫の餌などを買ったからである。そのあと、ネット通販で猫用のトイレも買った。

 アビシニアンの長毛種のソマリという種類だという。義理の姪からのプレゼントである。猫との生活がはじまれば気分は一新するだろう。ドキドキしている。
May 6, 2025 at 2:24 PM
 もちろん、気のせいだし、「そうだったらいいのに」と思っているからなのだろう。

 きのう、端午の節句が間近だというのに放り出され、拾ってきた鯉のぼりが喜んでいるように思える。きょうの買い物では、ひとり暮らしだというのに、柏餅を7個も買ってしまった。

 2、3日前から放置されていたとはいえ、拾ってきてよかったのだろうかと自問していたので、鯉のぼりの笑顔がとてもうれしい。

 鯉のぼりが喜んでいるとの錯覚は、拾ってきた自分の行為を正当化するあらわれに過ぎない。そのぼくは、何年ぶりの端午の節句だろうか。

 喜んでいるのは鯉のぼりではなく、自分のほうだとわかってきた。いい齢なのだけれど……。
May 2, 2025 at 12:36 PM
 端午の節句を前にして、鯉のぼりが道路脇の草むらの放置されていた。近くのスーパーマーケットの中にある100円ショプで売られているものだ。

 きっと、だれかが落としていたのだろう。中国製で、売り値は200円だという。ラベルにはかわいいイラストもある。

 もう来週は端午の節句である。中国から海を渡ってきた鯉のぼりたちだ。このままゴミになってしまうのはかわいそうじゃないか。

 今朝、拾い上げてきた。しばらく、ベランダで初夏の風の中を泳がせていたが、壊れてしまいそうなので部屋へ入れてやった。

 わが家で節句を迎えるのも相応の縁があったのだろう。おかげで、ぼくも今年はいい端午の節句を迎えられる。
May 1, 2025 at 12:09 PM