センター長
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himmelsola.bsky.social
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@himmelsola.bsky.social
a.k.a 曾良ひめる
わしゃいつから大喜利選手権坊主になったんじゃ
June 13, 2024 at 5:03 AM
逆に、重い自慰って何……?
June 12, 2024 at 6:08 PM
人間存在における生(ナマ)の出来事であるという意味において、暴力の露出と愛の露出は同様の事態だ。ラブコメの類型学的ソリディティに期待される作用は二つある。生の出来事を迂遠に表徴することでいずれ来るべき大暴露の衝撃を柔和にするワクチンの作用、あるいは、大暴露の衝撃をそもそもなかったものとして否認させ従来の日常を担保するプロパガンダの作用。これらは表裏一体であるがゆえに、どちらを優位に置くかは鑑賞者の恣意によって判断される。闘争のフロントラインはここだ。生の事態に局部を晒せとか、決死にして誠実たれとは口が避けても言えないけれど、せめてワクチンを接種するように諸々を摂取せよと、呼び掛けさせてほしい。
June 11, 2024 at 7:23 AM
戦争(これは現実世界で目下繰り広げられている戦争のことだ)がはじまって、知識としては知っていたものの、実感を伴う形で改めて痛切に思い知らされたことがある。無関心とは防衛機制なのだ。悲惨は割れ窓のごとく見るものを蝕み、悲惨を悲惨と思う感覚を麻痺させてしまう。暴力的思考には飛沫感染の性質がある。ひとたび悲惨が起きたとき善人たろうとする人は、悲惨を過剰に正視すると己の公準が狂うことを悟り、悲惨へと積極的に関与することができなくなるので、かえって善人ではいられなくなる。これらは義心の有無とか当人の資質とはまったく無関係の次元で発生する事象だ。私もまた、暴力から目を背けざるをえなかった畜群の一人である。
June 11, 2024 at 6:27 AM
ラジオを丁寧にやるというのは、存外にたいへんなことだ。リスナーはパーソナリティの声にしか耳を傾けるつもりがないのに、パーソナリティはリスナーの存在するかしないかも判らぬような声に注意を向けなければならない。かくも非対称なコミュニケーションが他にあるだろうか。それは消費されるラブコメと消費するラブコメ読者の非対称性にも似ている。
June 11, 2024 at 6:02 AM
もちろんラジオネームは「ミシェル・ウェルベック(本人)」だ。そうしてGoogle Formを思いのまま埋め尽くしたが、ふと我に返って文面を消去した。そもそも書き始める前から送るつもりなんかなかった。厄介リスナーになるつもりはない。他のリスナーに冷や水を浴びせるつもりも毛頭ない。思いの丈を投函することは躊躇われたから、こうして青空に発散した。読まれたお便り一つにつき、十の読まれなかったお便りと、百の誤配されたお便りと、千の投函されなかったお便りと、万の書かれなかったお便りと、億の言葉にならない叫び=ノイズがある。
June 11, 2024 at 5:44 AM
以上の主張に即して、「あなたのラブコメはどこから?」との問いに私なりの回答を提出することが許されるならば、高橋留美子『らんま1/2』を挙げたい。原作やアニメに触れたのは本当に大昔のことなのだけれど、あれがラブコメと称されているのを見るたびに、判然としない怒りが湧き立ったのを朧げに覚えている。やがて成長するにつれひとつの確信を得るに至った。なるほど、こういう消費形態が既にして成立しているから、みんな当然のように他人の色恋は冷やかして話の種にしても良いと思っているのだな、と。それからの私は、人を憎まずラブコメを憎むことにした。これが私とラブコメとの冷たい戦争の端緒で、停戦合意には未だ至っていない。
June 11, 2024 at 5:17 AM
べつに、非実在青少年の権利どうこうの話がしたいのではない。直截に言ってわれわれは無知蒙昧な生物で、実のところ虚構と現実の巖然な区別なんかまったくついていないし、そもそも区別がつかないように複製された現実こそが優れた虚構なのだ。ラブコメを笑い飛ばすことを当為のものとする態度は(間接的過程を挟まず、極めて相即的な因果の帰結として)現実に存する愛の諸容態を笑い飛ばす態度に直結する。ラブコメを笑うものはいずれ他人のセックスを笑うようになる。私はここに論理の飛躍があるとは全く思わない。そうでなければ、あなたがたが初等中等教育過程で目撃したような色恋と情事に対するからかいや冷やかしは起こらなかったはずだ。
June 11, 2024 at 4:53 AM
最後に、これは最も単純で理解してもらいやすい論点だろうから卑怯ながら強調しておくと、すなわちあなたがたは、ラブコメの登場人物に、あなたたちの懸想模様はわたしたちの世界においてコメディとして鑑賞され消費され笑われているんですよ、と直接伝えることができますか、ということなのだ。本来的に窃視であるはずの鑑賞行為が、結果的に笑いと喜びと微笑みを誘引することはともかくとして、笑いと喜びと微笑みを誘引するために窃視をしているんですよと、その見世物めいた性質を表明して喧伝するかのようなジャンル規定は、たとえ当為の語彙として世間に受容され認知されている現状があるとしても、簡明な言葉で問いに付されるべきである。
June 11, 2024 at 4:38 AM
類型学的思考から人間理解をスタートさせる態度、それ自体は良い。前述の通り交歓力学の複雑性は測り知れず、われわれの脳はそれを処理する方策を先天的に有するものではない。ただその類型学が時間的ダイナミズムを認めぬ視座に立った途端に挫折が宿命づけられる。ラブコメがラブコメと名指される時、そこには思考停止の呪力、哄笑による現実否認の作用が働いているように思われて仕方がない。そして目下のところラブコメを超出するラブコメをラブコメと名指す行為は、たとえそこに戦略的な撹乱の意図があったとしても、既存ジャンルへと回収される力の方が強く意識されるように思う。人々は愛を正視することからいとも容易く逃げてしまうから。
June 11, 2024 at 4:25 AM