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ヘリコプターで上空から全体を見下ろすような知。蓄積から図書館的知。アジアやアフリカの片田舎から欧米へ留学してきた若者が、大学図書館の片隅で、自分の出身村についての地図や民族誌を見つけたとしよう。そのときの衝撃は、屈辱感を、もたらないだろうか?

(宮地尚子『環状島=トラウマの地政学』p146)
March 26, 2024 at 1:43 AM
アイデンティティとは、その人が何を知っている人間かという捉え方もできるが、裏を返せば、何を知らない人間か、何を知らなくてもいいと思っている人間なのか、ということでもある。

(宮地尚子『環状島=トラウマの地政学』p145)
March 26, 2024 at 1:21 AM
当事者から非当事者に対しても、非当事者から当事者に対しても、そして当事者同士であっても、全面的な同一化をしようとしてはならない。全面的な同一化を期待したり、要求してもならない。あくまで部分的な同一化に留まり、肩の力を抜いて、万能感にも無力感にも支配されないこと。

(宮地尚子『環状島=トラウマの地政学』p118)
March 26, 2024 at 1:19 AM
もちろん、困難であるということは不可能であるということではない。可能性について議論するときと、実際にそれがどれだけ困難であるかの議論は別にされるべきである。可能だとまず思ってみなければ道は開けない。そこに社会構築論の貢献はあったはずである。

(宮地尚子『環状島=トラウマの地政学』p117)
March 26, 2024 at 1:17 AM
ちなみに、スチュアート・ホールは、アイデンティティという事後的に構築された概念を、アイデンティフィケーションという概念へさしもどし、「進行中」の過程に注目しようとしている。

(宮地尚子『環状島=トラウマの地政学』p113)
March 26, 2024 at 1:11 AM
マイノリティが自分の声を挙げようとするとき、それが成功すればするほど、その声は外部に対して「代表性」をもたされてしまいかねない。そして毎回会議のたびにマイノリティの「代表者」として呼び出され、結果として他のマイノリティ・メンバーの声を抑圧してしまったり、「マイノリティの声をちゃんと聴きました」というマジョリティのアリバイにも使われてしまう。

(宮地尚子『環状島=トラウマの地政学』p103)
March 26, 2024 at 1:10 AM
「セクシュアル・ハラスメント」という捉え方は、性的なことがらを扱いながらも、セクシュアリティそのものには真正面からぶつからずにすむ利点がある。

(宮地尚子『環状島=トラウマの地政学』p82)
March 26, 2024 at 1:07 AM
内部の分裂や、比較や切り捨てなど、「内輪もめ」といわれる現象が「あってはいけないもの」、その運動の欠点であるという捉え方から開放されるべきだ、と私は思う。

(宮地尚子『環状島=トラウマの地政学』p59)
March 26, 2024 at 1:05 AM
当事者と各支援者はある共通点をもちながらも、さまざまな差異をもつ。けれども、集団として一致団結を重視し、平等な仲間であることを重視すればするほど、差異は抑圧されていく。微妙な温度差が大きな対立をもたらし、差異を表に出すと「裏切り」「反逆」といった激しい非難の言葉が発せられる。

(宮地尚子『環状島=トラウマの地政学』p53)
March 26, 2024 at 1:01 AM
このようにみていけば、中心から近い位置にいる者ほど逆に語ることが困難になるのは当然の理である。不思議でもなんでもない。けれども現実には、中心に近い者ほど発言する権利がある、すべきである、できるはずである、しているに違いないという思いこみが、非常に強く人々の思考を縛っている。

(宮地尚子『環状島=トラウマの地政学』p15)
March 22, 2024 at 12:24 AM
ものごとから距離を取るというとき、それは、心的な距離を取ることによっても、人間関係を断ち切ることによっても可能になるが、物理的に離れることの効果は小さくない。

(宮地尚子『環状島=トラウマの地政学』p6)
March 22, 2024 at 12:22 AM
個人が集合心性と一体化すればするほど、彼はその道具と化し、その行為は自律性を失ってしまう。しかし、これが、ある程度意識されていることもありうる。個人は、群衆の中にいれば、識別されることもないだろうし、誰も彼に不利な証言はすまいし、騒擾に加わった者全員を罰することなど不可能だろう、といったことを計算しているわけだ。

(ルフェーヴル『革命的群衆』p62)
March 18, 2024 at 2:29 PM
人々は無意識の形で、計画的な意図などはなしに、日常的な語らいを通じ、ものの考え方・感じ方を共にするような心的作用を及ぼし合っていたのである。それゆえ、革命的な集合心性は、革命前夜に至って突如形成されるなどと考えてはならない。

(ルフェーヴル『革命的群衆』p37)
March 18, 2024 at 2:24 PM
このように見てくるならば、集合体が急激な変容により革命的結集体へと変化を遂げることがいかにして可能かを理解するのは容易ではなかろうか?この転換のためには、革命的な集合心性があらかじめ人々の裡に醸成されていること、そして、集合体が形成される時の状況のゆえに一時的に意識から排除されていた集合心性が、何かがきっかけとなって再び意識の前面に甦ってくることが必要であり、またそれで十分なのである。

(ルフェーヴル『革命的群衆』p32,33)
March 18, 2024 at 2:22 PM
アイデンティティ・ポリティクスはその内部に「他者」ないし「無限のエトセトラ」を抱え込まざるをえず、したがって、そのアイデンティティの「失敗」に直面せざるをえない。このことは、アイデンティティが前提にされるべきカテゴリーではなく、「様々な意味が競合する」場であることを示している。

(藤高和輝『ジュディス・バトラー』p149)
March 12, 2024 at 6:13 AM
ジェンダー・パロディを「偽」ではなく、「失敗」あるいは「行為」として描くことで、バトラーは「オリジナルなもの」それ自体が「模倣の構造」をもつものであることを明らかにした。オリジナルなものとそのパロディの関係は、「コピーとコピーの関係」なのだ。

(藤高和輝『ジュディス・バトラー』p146)
March 12, 2024 at 6:08 AM
自分の心の中の、「人間」を打ち殺して、「あるイスト」として、大きな「人間」を育てようとする人々の苦しみの深さの前に私は黙つてうなだれるより外に仕方がありません。

(葉山嘉樹「赤い荷札」)
March 11, 2024 at 10:06 AM
権力の「前」に「潜在的な前カテゴリー的源泉」として身体を位置づけることは、「身体の構築された地位についての彼の議論が証明すると考えられた中心点を最終的に掘り崩してしまう」とバトラーは主張するのである。

(藤高和輝『ジュディス・バトラー』p122)

→バトラーによるフーコー批判。
March 7, 2024 at 2:24 AM
フーコーは、なるほど権力や言説によって身体が構造化されるとしたが、そのような構造化が遂行される「不定詞」としての身体が存在するかどうかという点では曖昧であり、また実際にそのような「不定詞」としての身体の次元を前提にしている節がある。したがって、バトラーは、フーコーにみられる「現象学的前提」の残滓を批判的に乗り越えようとしているのであり、そのような前提をも系譜学の対象とするプログラムを提案しているのである。

(藤高和輝『ジュディス・バトラー』p120)
March 7, 2024 at 2:17 AM
『ジェンダー・トラブル』における現象学評価--とりわけボーヴォワール--はきわめて一面的なものである。ボーヴォワールの「ひとは女に生れない、女になる」という有名な言葉を引いて、バトラーは「女になる前の主体」が前提とされていることを批判する。

(藤高和輝『ジュディス・バトラー』p106)
March 7, 2024 at 1:45 AM
「「革命」を目指すマルクス主義において、国民国家にたいする批判的な観点から、nation=「国民」ではなく、people=「人民」という呼称が好んでもちいられた。共産主義においては、それは多民族への支配を正当化する「帝国」をつくったが、いっぽうで民族の偏狭さを超え出る理念でもあった。」

(綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』)
February 29, 2024 at 1:59 PM
説教とは、本来ならばつながらなかったものを無理矢理にでもつなげようとするための方途の一つなのではないか。言葉が届いて、納得されて、布教によって自分の四肢のような同胞が増える悦び。

(荒木優太『貧しい出版者』p11)
February 23, 2024 at 2:26 PM
なぜなら「混血」の思想は、まずなによりも、単一の原理にすべてを従わせようとするあらゆる権力にたいして、もっともシンプルで徹底的な抵抗となりうるからだ。(略)混血に加担する行為にひとたび踏み出したとき、彼/彼女は、新しい思考と感性の力学が生まれ育つ未知のテリトリーに入ってゆく。

(今福龍太『クレオール主義』、パルティータ版、p98)
February 23, 2024 at 1:43 AM
抵抗する力、みずからをポストコロニアル的・反帝国主義的主体へと作り直す力を、サイードにおいて中心に位置する。そして自己のこうした再創造は、彼が強く影響を受けたファノン的観点にそって、コンテクストをあたえなければならない。というのもアイデンティティをみずからの手で構築してこそ、自由といえるのだから。人類は、自らの手で自分自身をこしらえるものであり、たとえどれほど支配的言説に従属していようとも、それは可能なのだ。

(アシュクロフト+アルワリア『エドワード・サイード』p202)
February 22, 2024 at 9:34 AM
帝国主義の構成的性格についてポリフォニーの観点から、このようにアプローチするとは、帝国主義と反帝国主義的抵抗の双方の展望を考慮することだ。これは宗主国とかつて植民地化された社会とのからまりあい重なりあう歴史を明らかにすることでもあって、これによって、「非難のレトリック」を回避できる。

(アシュクロフト+アルワリア『エドワード・サイード』p168)
February 22, 2024 at 9:19 AM