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「ふくようけん」3代目です。
越境し移住してきた初代が1917年に創業。
当初は”陽は復昇る”「復陽軒」で1970年代に”福を養う”「福養軒」になりました。
2019年11月より横浜中華街西門通りの店舗は休業。
次をお楽しみに。
あと、instagramもmastodonもtumblrもtwitterもfukuyoken3daimeで、店のwebサイトはfukuyoken.com、店のtwitterとtumblrはfukuyokenです。
/以上が、当日、私自身(黄逈凡)が目撃した日本人自警団がわれらの華僑同胞唐宝君及び唐宝君と同時同所で殺害された某君の証拠です。/中華民国12(1923)年12月14日」

ぜひ書籍を読んでみて下さい。
September 14, 2025 at 5:07 AM
箕輪下停留場の左側を通った時、日本人自警団十数人が手にとび口や竹やりなどの武器を持って電柱の下に立っていた。宮柱の下には35、6歳の二人が縛り付けられていた。一人は東向きに座り、もう一人は西向きになっていた。二人とも殴られ頭蓋骨が割れて脳みそと血が顔面に流れ散り、息絶え絶えだった。黄文玲は危険と見て引き返したが、私は危険を官して3メートルくらいまで近づいた。一人に広東省香山県の唐宝君と分かったが、 もう一人は血だらけで識別できなかった。自警団の視線が私に集まったので危険を感じ、恐くなってい小港まで走ってにげた。
September 14, 2025 at 5:07 AM
『二二歳の七月、日本へ行った。翌年地震にあって十月二十三日帰国した。…
私ははじめ東京に、八月、九月は横浜にいて日本人の家に住んでいた。…
日本の警察は当時、毎晩二回調べに来た。地震後半月して日本人の親方はわれわれを連れて道路工事に出かけた。日本人は親方が我々を連れて強盗に行くのかと思ってかれを斬り殺した。朝六時だった。我々は九人じゅずつなぎにされて横浜の警察へ連れて行かれた。親方のおくさんは二三歳だったよ。十月二十二日に帰国したが、それきり私は二度と日本へ行かないよ。 (林賢巧/一九九〇年 八九歳 沢雅県西岸)

ぜひ書籍を読んでみて下さい。
September 13, 2025 at 1:59 AM
『一九二三年三月日本へ行って半年で地震に遇った。…地震の時は東京にいた。毎晩「お前は日本人か支那人か」といってまわってくる。親方は「絶対外へ出るな、出たら生命がないぞ」というので、私は自分の目で人が殺されるのを見ていない。ただ町で四、五人の死体を見た。私は当時固定工でなく流動工だったので難を免れた。地震後、日本政府は私たちを集めて長崎へ送り、上海へ送り返した…』(潘連友/一九九〇年八九歳 沢雅県西岸)
September 13, 2025 at 1:59 AM
『南千住に住んで浅草で砂利かつきをしていた。…二二歳で日本へ行った。仙宅山村から日本へ七〇人行ったが、生きているのは二人。
いっしょに日本へ行った林文桃は、日本人に鳶口でやられて南千住の宿まで逃げてきて死んだ。林啓清も林迪昌もやられて、傷の手当てをうけないまま船にのって温州まで帰って港で死んだよ。私は地震の時、日本人の親方の家に逃げて助けられた。』(林瑞昌/一九九〇年 九〇歳 沢雅県西岸仙宅山)
September 13, 2025 at 1:59 AM
『地震のとき、八丁目にいたが南千住へ逃げて数日たって帰ってみたら八丁目の人はみな殺されていた。垟坑の人も六人殺された。町はいたるところ殺人で歩けない。私は南千住の警察に保護されたが、大島の警察はよくないね、まったく中国人を保護しなかったよ。いとこは一緒に住んでいたのだが、路上でつかまって千葉(習志野)へ一カ月押しこめられていたよ。南千住では朝鮮人がたくさん殺された。中国人で殺された者は少ない。…』(陳崇帆/一九九〇年 九四歲 沢雅県西岸垟坑)
September 13, 2025 at 1:58 AM
「震災下の中国人虐殺 中国人労働者と王希天はなぜ殺されたか/仁木ふみ子さん(青木書店)」 「関東大震災と中国人 王希天事件を追跡する/田原洋さん(岩波書店)」 「関東大震災と中国人虐殺事件/今井清一さん(朔北社)」より ぜひ書籍を読んでみて下さい。
September 8, 2025 at 11:41 PM
その後12月20日、神田の救世軍本営で王希天の追悼会が開かれました。わざわざ来日した中国政府代表や、日銀総裁、布施辰治、小村俊三郎、陸奥広告等も参加していた。 この追悼会における山室軍平の弔辞は出席者に深い感銘を与えたと言われています。

後年発見された草稿には、「…余ハ二十四歳ノトキ数十人ノ労働者ノ中ニ入り、不思議ノ導キニテ救世軍ニ入リキ。王君ハ数十人ドコロカ数千人ヲ相手ニ尽力シタルモノニテ、将来ドノヨウナ大キナ働キガ出来ル人トナリシカ知ラズ。…」などという記載があります。

草稿を見つけ出した山室軍平研究家は「軍平がこんなに人を讃めたたえているのは珍しい」と語っています。
September 8, 2025 at 11:40 PM
9月9日より王兆澄や山室軍平など王希天の友人・知人・仲間達による必死の捜索が始まりますが所在も生死も分かりませんでした。事件が表面化するのは10月になってから。送還船山城丸で虐殺事件の難を逃れた大島町在住だった中国人労働者達や虐殺現場から重傷を負うも逃げ延びた黄子蓮と、送還船での帰国を目指すが日本政府により妨害され、他人に変装して乗船し、たまたま黄と乗り合わせ聞き取り調査を行った王兆澄によって、中国国内で虐殺事件が報告されてからです。
September 8, 2025 at 11:40 PM
王を外で受け取ったのは第六中隊佐々木大尉(学生側の虐殺事件調書)。
その後千葉街道を東へ連行され、逆井橋のたもとで待ち受けていた垣内八州夫中尉に殺されます。
September 8, 2025 at 11:39 PM
王は、中国人受領事務を手伝うあいだは自由を与えられ、手伝いが終わると署に戻され拘束されていたと考えられています。

11日、伍を含む中国人労働者15名は習志野へ送られる事になります。
王も同行し、劉国先に自転車を持たせ区役所まで行きましたが「自分は労働者の事で用事があるから千葉へ行くわけにはいかない。」と言い、なぜかその主張は受け入れられて残る事になりました。(劉国先の証言)

12日早朝、再び亀戸署内。制服帯剣の兵士二名が麻縄で王を縛って連れ出します。
王は苦しんで縄を緩めるように言いましたが、兵士は聞かず、そのまま何処かへ連れて行きました。(周敏書の証言)。
September 8, 2025 at 11:39 PM
そして午後、王は野戦重砲兵第七連隊に逮捕され、亀戸郵便局隣の憲兵隊司令部に連行されます。

「王は中国へ電報を打ちたいからと11円を出して頼んでいるが、憲兵は許さず金は取り上げた。」という証言があります。(王耀明の証言)。

翌9月10日午前6時30分、亀戸警察署に移され(伍銘鐘の証言)、昼は受領所で中国人受領事務を手伝わされています(王耀明)。

午後5時頃、伍銘鐘は亀戸警察署内で拘束された王希天と会話をしています。「どうして?(伍)」「仕方ない。(王)」それ以上の会話は警察に制止されました。
September 8, 2025 at 11:38 PM
11時過ぎに日本人人夫頭佐藤右衛門が五の橋付近で、亀戸警察方面から徒歩で向かって来る王に会い、連れの者に「あいつが共済会のボスだ」などと言っています。
12時頃差配人遠山の家に寄り、昼過ぎに6丁目・8丁目の虐殺現場に向かったとされています。

「王希天はね、転がっている死体をいちいち中国人か調べて歩いていたよ。…」陳国法は、襟口を掴んで頭を起こし、顔を識別する仕草をして証言しています。
September 8, 2025 at 11:37 PM
8時に避難先を出発した王は、大島町には10時過ぎに到着していたと考えられています。

王は、麦わら帽、半袖シャツ、白に藍色の線の入った半ズボン、チョコレート色の革靴、黒いWの字の入った白の皮ベルト、銀時計、といった出で立ちで、大塚一三三八号の自転車に乗って出かけました。

これは、目立つが、当時民族服を常用していた中国人労働者とは違う事で、自警団から言いがかりを避ける効果を狙ったのだとされています。

王はまず、大島町3丁目の僑日共済会事務所に立ち寄りますが、誰もいません。
家主の遠山家間八に挨拶をしてもなにかよそよそしい。

そしてその後、王は亀戸警察に虐殺の噂を確認しに行ったと思われます。
September 8, 2025 at 11:36 PM
王は大島町に訪れる前に、救世軍の山室軍平を尋ね、山室の名刺に中国人であるという証明を書いて貰っています。

その”私製”身分証明書には「此ノ名刺ノ所持者王希天君は朝鮮人二アラズ信頼スベキ支那人紳士ナリ、多年親交ノ故ヲ以テ茲二コレヲ証明ス」と書いてありました。
September 8, 2025 at 11:36 PM