越境し移住してきた初代が1917年に創業。
当初は”陽は復昇る”「復陽軒」で1970年代に”福を養う”「福養軒」になりました。
2019年11月より横浜中華街西門通りの店舗は休業。
次をお楽しみに。
あと、instagramもmastodonもtumblrもtwitterもfukuyoken3daimeで、店のwebサイトはfukuyoken.com、店のtwitterとtumblrはfukuyokenです。
ぜひ書籍を読んでみて下さい。
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私ははじめ東京に、八月、九月は横浜にいて日本人の家に住んでいた。…
日本の警察は当時、毎晩二回調べに来た。地震後半月して日本人の親方はわれわれを連れて道路工事に出かけた。日本人は親方が我々を連れて強盗に行くのかと思ってかれを斬り殺した。朝六時だった。我々は九人じゅずつなぎにされて横浜の警察へ連れて行かれた。親方のおくさんは二三歳だったよ。十月二十二日に帰国したが、それきり私は二度と日本へ行かないよ。 (林賢巧/一九九〇年 八九歳 沢雅県西岸)
ぜひ書籍を読んでみて下さい。
私ははじめ東京に、八月、九月は横浜にいて日本人の家に住んでいた。…
日本の警察は当時、毎晩二回調べに来た。地震後半月して日本人の親方はわれわれを連れて道路工事に出かけた。日本人は親方が我々を連れて強盗に行くのかと思ってかれを斬り殺した。朝六時だった。我々は九人じゅずつなぎにされて横浜の警察へ連れて行かれた。親方のおくさんは二三歳だったよ。十月二十二日に帰国したが、それきり私は二度と日本へ行かないよ。 (林賢巧/一九九〇年 八九歳 沢雅県西岸)
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いっしょに日本へ行った林文桃は、日本人に鳶口でやられて南千住の宿まで逃げてきて死んだ。林啓清も林迪昌もやられて、傷の手当てをうけないまま船にのって温州まで帰って港で死んだよ。私は地震の時、日本人の親方の家に逃げて助けられた。』(林瑞昌/一九九〇年 九〇歳 沢雅県西岸仙宅山)
いっしょに日本へ行った林文桃は、日本人に鳶口でやられて南千住の宿まで逃げてきて死んだ。林啓清も林迪昌もやられて、傷の手当てをうけないまま船にのって温州まで帰って港で死んだよ。私は地震の時、日本人の親方の家に逃げて助けられた。』(林瑞昌/一九九〇年 九〇歳 沢雅県西岸仙宅山)
後年発見された草稿には、「…余ハ二十四歳ノトキ数十人ノ労働者ノ中ニ入り、不思議ノ導キニテ救世軍ニ入リキ。王君ハ数十人ドコロカ数千人ヲ相手ニ尽力シタルモノニテ、将来ドノヨウナ大キナ働キガ出来ル人トナリシカ知ラズ。…」などという記載があります。
草稿を見つけ出した山室軍平研究家は「軍平がこんなに人を讃めたたえているのは珍しい」と語っています。
後年発見された草稿には、「…余ハ二十四歳ノトキ数十人ノ労働者ノ中ニ入り、不思議ノ導キニテ救世軍ニ入リキ。王君ハ数十人ドコロカ数千人ヲ相手ニ尽力シタルモノニテ、将来ドノヨウナ大キナ働キガ出来ル人トナリシカ知ラズ。…」などという記載があります。
草稿を見つけ出した山室軍平研究家は「軍平がこんなに人を讃めたたえているのは珍しい」と語っています。
その後千葉街道を東へ連行され、逆井橋のたもとで待ち受けていた垣内八州夫中尉に殺されます。
その後千葉街道を東へ連行され、逆井橋のたもとで待ち受けていた垣内八州夫中尉に殺されます。
11日、伍を含む中国人労働者15名は習志野へ送られる事になります。
王も同行し、劉国先に自転車を持たせ区役所まで行きましたが「自分は労働者の事で用事があるから千葉へ行くわけにはいかない。」と言い、なぜかその主張は受け入れられて残る事になりました。(劉国先の証言)
12日早朝、再び亀戸署内。制服帯剣の兵士二名が麻縄で王を縛って連れ出します。
王は苦しんで縄を緩めるように言いましたが、兵士は聞かず、そのまま何処かへ連れて行きました。(周敏書の証言)。
11日、伍を含む中国人労働者15名は習志野へ送られる事になります。
王も同行し、劉国先に自転車を持たせ区役所まで行きましたが「自分は労働者の事で用事があるから千葉へ行くわけにはいかない。」と言い、なぜかその主張は受け入れられて残る事になりました。(劉国先の証言)
12日早朝、再び亀戸署内。制服帯剣の兵士二名が麻縄で王を縛って連れ出します。
王は苦しんで縄を緩めるように言いましたが、兵士は聞かず、そのまま何処かへ連れて行きました。(周敏書の証言)。
「王は中国へ電報を打ちたいからと11円を出して頼んでいるが、憲兵は許さず金は取り上げた。」という証言があります。(王耀明の証言)。
翌9月10日午前6時30分、亀戸警察署に移され(伍銘鐘の証言)、昼は受領所で中国人受領事務を手伝わされています(王耀明)。
午後5時頃、伍銘鐘は亀戸警察署内で拘束された王希天と会話をしています。「どうして?(伍)」「仕方ない。(王)」それ以上の会話は警察に制止されました。
「王は中国へ電報を打ちたいからと11円を出して頼んでいるが、憲兵は許さず金は取り上げた。」という証言があります。(王耀明の証言)。
翌9月10日午前6時30分、亀戸警察署に移され(伍銘鐘の証言)、昼は受領所で中国人受領事務を手伝わされています(王耀明)。
午後5時頃、伍銘鐘は亀戸警察署内で拘束された王希天と会話をしています。「どうして?(伍)」「仕方ない。(王)」それ以上の会話は警察に制止されました。
12時頃差配人遠山の家に寄り、昼過ぎに6丁目・8丁目の虐殺現場に向かったとされています。
「王希天はね、転がっている死体をいちいち中国人か調べて歩いていたよ。…」陳国法は、襟口を掴んで頭を起こし、顔を識別する仕草をして証言しています。
12時頃差配人遠山の家に寄り、昼過ぎに6丁目・8丁目の虐殺現場に向かったとされています。
「王希天はね、転がっている死体をいちいち中国人か調べて歩いていたよ。…」陳国法は、襟口を掴んで頭を起こし、顔を識別する仕草をして証言しています。
王は、麦わら帽、半袖シャツ、白に藍色の線の入った半ズボン、チョコレート色の革靴、黒いWの字の入った白の皮ベルト、銀時計、といった出で立ちで、大塚一三三八号の自転車に乗って出かけました。
これは、目立つが、当時民族服を常用していた中国人労働者とは違う事で、自警団から言いがかりを避ける効果を狙ったのだとされています。
王はまず、大島町3丁目の僑日共済会事務所に立ち寄りますが、誰もいません。
家主の遠山家間八に挨拶をしてもなにかよそよそしい。
そしてその後、王は亀戸警察に虐殺の噂を確認しに行ったと思われます。
王は、麦わら帽、半袖シャツ、白に藍色の線の入った半ズボン、チョコレート色の革靴、黒いWの字の入った白の皮ベルト、銀時計、といった出で立ちで、大塚一三三八号の自転車に乗って出かけました。
これは、目立つが、当時民族服を常用していた中国人労働者とは違う事で、自警団から言いがかりを避ける効果を狙ったのだとされています。
王はまず、大島町3丁目の僑日共済会事務所に立ち寄りますが、誰もいません。
家主の遠山家間八に挨拶をしてもなにかよそよそしい。
そしてその後、王は亀戸警察に虐殺の噂を確認しに行ったと思われます。
その”私製”身分証明書には「此ノ名刺ノ所持者王希天君は朝鮮人二アラズ信頼スベキ支那人紳士ナリ、多年親交ノ故ヲ以テ茲二コレヲ証明ス」と書いてありました。
その”私製”身分証明書には「此ノ名刺ノ所持者王希天君は朝鮮人二アラズ信頼スベキ支那人紳士ナリ、多年親交ノ故ヲ以テ茲二コレヲ証明ス」と書いてありました。