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diabolik.bsky.social
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@diabolik.bsky.social
ボスは自身の過去を徹底的に忌避する存在である。自らの名を捨て、出自を隠し、過去とは断絶して生きることを選んだ、そこに「女」という存在が避けがたく介入してくる。女とは、ボスにとって変化と混沌の象徴であり、予測不能な未来の担い手である。
彼女たちは生み、繋ぎ、暴く。それは彼の望む絶対的秩序や支配とは本質的に相反する。
トリッシュという存在は血の連鎖を通じて過去を顕在化させる者であり、女の系譜のなかで避けがたい変化の到来を告げる存在だった。
彼が忌んだのは、この“つながり”が生み出す時間の流れそのもの。この姿勢は古い伝承にある「肋骨から生まれた女によって運命を狂わされた男」の物語を思い起こさせる。
May 25, 2025 at 3:22 AM
ギャラリーしろむじ
May 23, 2025 at 9:08 AM
one one market
May 23, 2025 at 9:07 AM
自分が大切に思っていても相手もそうとは限らないので仕方ないんだが無力感はあるよねっていう
May 3, 2025 at 9:17 PM
March 18, 2025 at 11:55 PM
抹茶ソフトおいしかった
February 25, 2025 at 2:35 AM
頂いたチョコは落ち込んだときに食べようと思っていて…でももう少し我慢しようかな
February 10, 2025 at 10:27 AM
BOSSの人生を決定的に狂わせたのは組織の抗争でも裏切りでもなく女という存在そのものである。原罪の起点であり、堕落の門であり、破滅の呼び水であり、女とは男の運命を狂わせる存在として描かれてきた。BOSSにとってもそれは例外ではない。BOSSの秩序を真に脅かしたのは娘とその母だった。BOSSにとって血縁とは「血の呪い」に他ならない。BOSSは秩序の支配者であり、完全なる隠匿の体現者だった。誰にも知られず、誰にも触れられず、ただ自らの法を貫くために存在していた。しかし┣¨が孕んだことでBOSSの「存在しないはずの痕跡」は否応なく刻まれた。
February 5, 2025 at 5:06 AM
リアルタイム考察、ごちゃごちゃ
January 31, 2025 at 4:28 AM
性善説とは「人間は生まれながらにして善である」という孟子の思想で、対して性悪説(荀子の思想)は「人間は生まれながらにして悪であり、教育や規律によって善へと導かれる必要がある」としている。ここで鍵となるのは、「性善=絶対的な善人である」という意味ではなく、「本質的に善を持ちうる存在であるか」という点。
BOSSの場合、この説を適用するのは難しい点がいくつかある。ゼロというわけではないというか、一応性善説を唱える余地は残してあるが……。
January 31, 2025 at 3:26 AM
宗教画の見方みたいな本出てた気はするんだ この光の射し方は何を表しているだとかこの穂の形は十字架を示しているだとか そういう…知識がほしいのだが 記憶の保持がちょっと難しくてな…特性というか…
January 23, 2025 at 9:01 AM
ボスピのことひたすら話していたすぎるのだがそのためにも知識を深めないといけないのでんも〜〜となる 映画は倍速マンだし絵画はまったくわからんのだが…うぐぐ
January 23, 2025 at 8:57 AM
終わった。つかれた。途中で寝てしまった……。
January 21, 2025 at 8:19 PM
暗ቻの行動を擁護する主張として彼らの行為が「抗議」であるとする見解があるが、これは事実を無視した、あるいは歪曲した解釈に過ぎない。彼らの行動は単なる抗議や意見表明ではなく組織の掟を破り、私利私欲を満たすために行われた重大な裏切り行為。本稿ではその行動の性質と結果について詳細に考察し、さらに聖書的視点や文学的視点を交えて彼らの行いがいかに非難されるべきものであるかを論じる。
January 21, 2025 at 5:40 PM
選民思想を持っていると詰られたことを思い出した。選民思想に対する批判はしばしばそれが排他的であると見なされる点に基づいている。しかし、ある特定の対象に対する深い敬意や理解が背景にある場合、その感情は単なる排他主義とは異なる次元のものであり、むしろ対象を正しく扱おうとする責任感の現れと見るべき。BOSSへ「神」としての敬意を抱くことはその本質を理解しようとする探求心に根ざしている。そしてその探求心を共有できる人々が限られるのも自然なこと。なぜなら深い理解には時間、知識、そして何よりも敬意が必要だから。
January 16, 2025 at 5:19 AM
寝起きなのであれだが旧きものに触れたのならちょっぴりだが新しきものにも触れておこう。
ゾルノはボスという旧約的な「熱情の神」を倒した簒奪者として物語における重要な転換点を担う存在だ。その行動や理想は旧約から新約への移行を象徴するものとして解釈できるが、完全に新約の神の特性を体現しているわけではない。新約における神の主要な特性は無条件の愛、赦し、そして人類への救済。しかしゾルノの行動には「赦しの神」の特徴が欠けている。彼は仲間たちを救うために尽力し理想的な秩序を掲げる一方で、その過程では暴力や策謀を駆使し、敵対者を容赦なく排除した。
January 16, 2025 at 4:44 AM
ヘブライ語で書くとバグるからやめるが、「ぼくの名前はドッピオ」「そいつの名はディアボロ」ってこの「その名を熱情と言い、熱情の神である」にもかかってるのだよな。キリスト教世界で長らく標準とされてきたラテン語では「ne adoraveris deum alienum. Dominus Zelotes nomen eius: Deus est aemulator.」と書かれていて、nomen eiusという表現、これは「その名は~」を意味するものとなっている。
January 15, 2025 at 11:23 PM
猿でもわかるように説明するとまず「テーゼ」というのはある考え方や主張のこと。この5部でのテーゼは「結果だけを求めるBOSSのやり方」。BOSSは「目的のためなら過程なんてどうでもいい」という主張をしている。自分の支配を守るためなら血縁でも部下でも平気で切り捨てるめっちゃ冷たいやつというわけ。
それに対して「アンチテーゼ」というのはそのテーゼに逆らう、真っ向から対立する考え方のこと。たとえば「過程や仲間が大事なんだ」って主張があれば、それはBOSSへのアンチテーゼになる。
January 2, 2025 at 10:58 PM
アンチテーゼ(antithesis)とは「対立命題」や「反対する考え」を意味し、物語や哲学の中で主題や命題を際立たせるために対置される要素。哲学的にはヘーゲルの弁証法で使われる「テーゼ(命題)」に対する反論や対抗する視点のこと。JO²5部ではBOSSの思想や行動が一つのテーゼを体現していて、それに対し異なる立場や価値観を示すキャラクターがアンチテーゼの役割を担っている。物語におけるアンチテーゼは主人公や主要なテーマを際立たせるため、それに対立するキャラクターや思想を配置し、物語を通して命題やテーマの本質を探る役割を果たす。
January 2, 2025 at 7:13 PM
できるだけ暗殺側に立って考えてみると、ボスや組織の不備に責任転嫁する形での苦し紛れの言い訳なら想定できる。
「暗殺者にとって能力は究極の切り札。ボス個人にさえ明かすことで利用されるだけでなく排除されるリスクがあると考えた。組織のために働く中で、必要以上の情報を開示することが忠誠とは限らない。」
「自分たちは命をかけて組織の最も危険な任務を遂行してきた。しかし報酬や地位は組織全体の利益に見合わず、他のメンバーよりも軽視されている。縄張りが持てないのは仕方ないが、それならばそれに見合った報酬を与えるべき。自分たちの不満は合理的で正当なものだ。」
December 30, 2024 at 9:44 AM
暗ቻは「組織に忠誠を誓っているのであってボスに誓った訳ではない」という意見を見たので以下、矛盾点を指摘したい。あくまで私はBOSS側に寄り添っている、という前提ではあるが。

・組織はボスを中核として成立している。ギャング組織においてボスとは組織の象徴であり統治者。ボスの指示や統治がなければ組織の秩序やビジネスは成り立たず、「組織」として機能することは不可能。「組織に忠誠を誓う」という行為は、すなわちボスの命令や統治に従うことを含意する。つまり、組織とボスを切り離して考えること自体が不可能なため、「ボスには忠誠を誓わないが、組織には忠誠を誓う」という主張は矛盾する。
December 30, 2024 at 9:13 AM
パネトーネとシュトレンとなんかイタリアのチョコビスケット
December 23, 2024 at 11:01 PM
とはいえ創作において解釈の自由や多様性を完全に否定するつもりはない。IFという形で新しい可能性を描くことで原作を補完し、より深く楽しむことも可能。ただし重要なのはどのような表現であっても原作やキャラたちへの敬意を決して忘れないこと。もしその基盤に原作への愛がしっかりとあるのであれば、それはきっとより多くの人に届き共感を呼ぶ作品となるだろう。原作の描く世界観やキャラの生き様は創作の出発点であり、決して軽んじられるべきものではない。その重みを受け止め尊重しながら自分なりの表現を模索すること、それこそが二次創作が本来持つ意義なのだと思う。
December 19, 2024 at 11:15 PM
それを無視し自分が好きなキャラを過剰に持ち上げるため、他のキャラを軽んじるような描写……尊厳を奪われたり人格を歪められたりする改変を見ると反吐が出る。二次創作は原作への愛を基盤とするもの。しかし自分本位な欲望の投影が優先されることで原作そのものや他のキャラの魅力が軽視されるようでは、果たしてそれは本当に愛と呼べるのか。一人のキャラを持ち上げることはそのキャラが持つ魅力を伝えるための手段であるべきで、それが他者を貶める形で成り立つのであれば、その表現の意義を改めて問い直す必要があると感じる。
December 19, 2024 at 11:12 PM
一方で生存IFという形でキャラや自身の心が救われたと感じる者もいるのだろう。その思いを完全に否定するつもりはない。愛するキャラの新たな可能性を描くことで救いを見出すことは確かに創作の一つの在り方。しかしそれが原作を軽視し、世界観や他のキャラを犠牲にする形で行われるのであればその意義を問い直す必要がある。原作が描いたキャラたちはそれぞれの行動に理由があり、その背景には物語全体を支える重要な意図がある。彼らの選択や生き様は作者が丹念に築き上げた世界観の中で緻密に構成されたものだ。
December 19, 2024 at 11:07 PM