法然上人
「生けらば念仏の功つもり、死なば浄土へ参りなん。とてもかくても、此の身には、思いわずろう事ぞなきと思いぬれば、死生ともにわずらいなし」
“子の母をおもうがごとくにて
衆生仏を憶すれば
現前当来とおからず
如来を拝見うたがわず”(浄土和讃)
意訳「子が母親のことを片時も忘れず慕うように、
生きとし生けるものが仏(阿弥陀如来)を心にかけ、深く想うならば、
いま現在、あるいは遠くない未来に、
必ず如来を目の当たりに拝することができる。そのことに疑いの余地はない。」
“子の母をおもうがごとくにて
衆生仏を憶すれば
現前当来とおからず
如来を拝見うたがわず”(浄土和讃)
意訳「子が母親のことを片時も忘れず慕うように、
生きとし生けるものが仏(阿弥陀如来)を心にかけ、深く想うならば、
いま現在、あるいは遠くない未来に、
必ず如来を目の当たりに拝することができる。そのことに疑いの余地はない。」
“本願力にあいぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水へだてなし”(高僧和讃)
意訳「阿弥陀仏の本願の力に出遇(であ)ったならば、人生を虚しくやり過ごしてしまう人は一人もいません。
阿弥陀仏の功徳(救いのちから)という宝の海が満ちあふれ、私たちの煩悩という濁った水をも、分け隔てなく包み込んでくださるからです。」
“本願力にあいぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水へだてなし”(高僧和讃)
意訳「阿弥陀仏の本願の力に出遇(であ)ったならば、人生を虚しくやり過ごしてしまう人は一人もいません。
阿弥陀仏の功徳(救いのちから)という宝の海が満ちあふれ、私たちの煩悩という濁った水をも、分け隔てなく包み込んでくださるからです。」
“生死の苦海ほとりなし
ひさしくしずめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ
のせてかならずわたしける”(高僧和讃)
意訳「生死(迷いの世界)という苦しみの海には果てがなく、
長い間そこに沈んできた私たちを、
阿弥陀仏の本願という船だけが
必ず乗せて彼岸へ渡してくださる」
“生死の苦海ほとりなし
ひさしくしずめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ
のせてかならずわたしける”(高僧和讃)
意訳「生死(迷いの世界)という苦しみの海には果てがなく、
長い間そこに沈んできた私たちを、
阿弥陀仏の本願という船だけが
必ず乗せて彼岸へ渡してくださる」
“清浄光明(しょうじょうこうみょう)ならびなし
遇斯光(ぐしこう)のゆえなれば
一切の業繫(ごうけ)ものぞこりぬ
畢竟依(ひっきょうえ)を帰命せよ”(浄土和讃)
意訳「阿弥陀さまの放つ清らかで輝かしい光は、この世の何ものにも例えようがないほど優れています。
この光に照らされ、出会うことができたなら、
私たちを縛り付けている**あらゆる罪や障り(煩悩の束縛)**はきれいに取り除かれます。
ですから、私たちが究極に頼るべき唯一の拠り所(阿弥陀さま)に、心からおまかせしなさい。」
“清浄光明(しょうじょうこうみょう)ならびなし
遇斯光(ぐしこう)のゆえなれば
一切の業繫(ごうけ)ものぞこりぬ
畢竟依(ひっきょうえ)を帰命せよ”(浄土和讃)
意訳「阿弥陀さまの放つ清らかで輝かしい光は、この世の何ものにも例えようがないほど優れています。
この光に照らされ、出会うことができたなら、
私たちを縛り付けている**あらゆる罪や障り(煩悩の束縛)**はきれいに取り除かれます。
ですから、私たちが究極に頼るべき唯一の拠り所(阿弥陀さま)に、心からおまかせしなさい。」
“いま庶(ねが)わくは道俗等、大悲の願船は清浄信心をして順風とす、無明の闇夜には功徳の宝珠をして大炬(だいこ)とす。”(浄土文類聚鈔)
意訳「いま、心から願うことは、僧侶も世俗の人々も等しく、阿弥陀仏の慈悲という大きな船に乗るために、清らかな信心を『追い風』として進んでほしいということです。
また、無知という名の暗い夜の道を行くときには、仏さまの功徳(南無阿弥陀仏)という宝の玉を、道を照らす『大きなたいまつ』として進んでほしいのです。」
“いま庶(ねが)わくは道俗等、大悲の願船は清浄信心をして順風とす、無明の闇夜には功徳の宝珠をして大炬(だいこ)とす。”(浄土文類聚鈔)
意訳「いま、心から願うことは、僧侶も世俗の人々も等しく、阿弥陀仏の慈悲という大きな船に乗るために、清らかな信心を『追い風』として進んでほしいということです。
また、無知という名の暗い夜の道を行くときには、仏さまの功徳(南無阿弥陀仏)という宝の玉を、道を照らす『大きなたいまつ』として進んでほしいのです。」
“明らかに知りぬ、これ凡聖自力の行にあらず。かるがゆえに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して、念仏成仏すべし。”(教行信証)
意訳「はっきりと知ることができた。(念仏というものは)凡夫(迷える人間)や聖者の自力の修行ではない。だからこそ、(自分の功徳を往生のために振り向ける必要のない)**『不回向(ふえこう)の行』**と呼ぶのである。
知恵のある聖人も、愚かな凡夫も、罪の重い者も軽い者も、みな同じく等しく、阿弥陀仏が選び取られた本願という広大な宝の海(選択の大宝海)に帰し、念仏によって成仏すべきである。」
“明らかに知りぬ、これ凡聖自力の行にあらず。かるがゆえに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して、念仏成仏すべし。”(教行信証)
意訳「はっきりと知ることができた。(念仏というものは)凡夫(迷える人間)や聖者の自力の修行ではない。だからこそ、(自分の功徳を往生のために振り向ける必要のない)**『不回向(ふえこう)の行』**と呼ぶのである。
知恵のある聖人も、愚かな凡夫も、罪の重い者も軽い者も、みな同じく等しく、阿弥陀仏が選び取られた本願という広大な宝の海(選択の大宝海)に帰し、念仏によって成仏すべきである。」
“ここをもって、今大聖の真説に拠るに、難化の三機・難治の三病は、大悲の弘誓を憑み、利他の信海に帰すれば、これを矜哀して治す、これを憐憫して療したまう。”教行信証(信文類)
意訳「ここで、今(親鸞が)お示しした大聖人(釈尊)の真実の教えに基づけば、救いがたい三種の機根(人々)や、治しがたい三種の重病を持つ者であっても、阿弥陀仏の大いなる慈悲の誓いを頼りにし、他力という信じがたいほど深い海に帰依するならば、仏はこれを深くあわれんで治し、慈しみをもって癒やしてくださるのである。」
“ここをもって、今大聖の真説に拠るに、難化の三機・難治の三病は、大悲の弘誓を憑み、利他の信海に帰すれば、これを矜哀して治す、これを憐憫して療したまう。”教行信証(信文類)
意訳「ここで、今(親鸞が)お示しした大聖人(釈尊)の真実の教えに基づけば、救いがたい三種の機根(人々)や、治しがたい三種の重病を持つ者であっても、阿弥陀仏の大いなる慈悲の誓いを頼りにし、他力という信じがたいほど深い海に帰依するならば、仏はこれを深くあわれんで治し、慈しみをもって癒やしてくださるのである。」
“信のうえは、とうとく思いて申す念仏も、また、ふと申す念仏も、仏恩に備わるなり”(蓮如上人御一代記聞書180)
意訳「信心をいただいた上では、『ありがたい、尊い』と深く感動して称える念仏も、また、ふとした拍子に口から出る(特別な感情のない)念仏も、どちらも等しく仏さまの恩に報いるものとなるのです。」
“信のうえは、とうとく思いて申す念仏も、また、ふと申す念仏も、仏恩に備わるなり”(蓮如上人御一代記聞書180)
意訳「信心をいただいた上では、『ありがたい、尊い』と深く感動して称える念仏も、また、ふとした拍子に口から出る(特別な感情のない)念仏も、どちらも等しく仏さまの恩に報いるものとなるのです。」
“ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈、遇いがたくして今遇うことを得たり。聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。”(教行信証)
意訳「ここに、愚かな僧である釈親鸞は、なんとありがたいことだろう。
西方インド・中央アジアの聖典、そして中国や日本の高僧の教え――
本来なら出会うことが難しいそれらに、今まさに出会うことができた。
本来なら聞くことが難しい教えを、すでに聞くことができたのである。」
“ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈、遇いがたくして今遇うことを得たり。聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。”(教行信証)
意訳「ここに、愚かな僧である釈親鸞は、なんとありがたいことだろう。
西方インド・中央アジアの聖典、そして中国や日本の高僧の教え――
本来なら出会うことが難しいそれらに、今まさに出会うことができた。
本来なら聞くことが難しい教えを、すでに聞くことができたのである。」
“煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、
大悲倦きことなく、常に我を照したまう、といえり。”(正信偈)
意訳「私の煩悩(欲や怒りなどの迷い)が眼をさえぎって、阿弥陀仏の姿を直接拝見することはできませんが、仏の大いなる慈悲(大悲)は、決して見捨てることなく、常に私を照らしてくださっています。」
“煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、
大悲倦きことなく、常に我を照したまう、といえり。”(正信偈)
意訳「私の煩悩(欲や怒りなどの迷い)が眼をさえぎって、阿弥陀仏の姿を直接拝見することはできませんが、仏の大いなる慈悲(大悲)は、決して見捨てることなく、常に私を照らしてくださっています。」
“たとえば、日光の雲霧に覆わるれども、 雲霧の下、明らかにして闇きことなきがごとし。”(教行信証)
意訳「たとえば、太陽の光が雲や霧に覆われていたとしても、その雲や霧の下(地上)は明るく、暗闇になることがないようなものである。」
“たとえば、日光の雲霧に覆わるれども、 雲霧の下、明らかにして闇きことなきがごとし。”(教行信証)
意訳「たとえば、太陽の光が雲や霧に覆われていたとしても、その雲や霧の下(地上)は明るく、暗闇になることがないようなものである。」
“凡聖、逆謗、ひとしく回入すれば、 衆水、海に入りて一味なるがごとし。”(正信偈)
意訳「悟りを開いた聖者も、迷いの中にいる凡夫も、重い罪を犯した者も、教えをそしった者も、ひとたび阿弥陀仏の救いの海へ入り込めば、あたかも多くの川の水が海に流れ込んで、すべて同じ一つの塩味になるように、誰もが等しく救われていくのである。」
“凡聖、逆謗、ひとしく回入すれば、 衆水、海に入りて一味なるがごとし。”(正信偈)
意訳「悟りを開いた聖者も、迷いの中にいる凡夫も、重い罪を犯した者も、教えをそしった者も、ひとたび阿弥陀仏の救いの海へ入り込めば、あたかも多くの川の水が海に流れ込んで、すべて同じ一つの塩味になるように、誰もが等しく救われていくのである。」
“おなじくは、みもとにてこそおわり候わばおわり候わめとぞんじて、まいりて候うなり”(親鸞聖人御消息/同朋・覚信の言葉)
意訳「どうせ死ぬのであれば、お側(師である親鸞聖人のもと)で死のうと思って、参ったのです」
“おなじくは、みもとにてこそおわり候わばおわり候わめとぞんじて、まいりて候うなり”(親鸞聖人御消息/同朋・覚信の言葉)
意訳「どうせ死ぬのであれば、お側(師である親鸞聖人のもと)で死のうと思って、参ったのです」
“すべて、よきひと、あしきひと、とうときひと、いやしきひとを、無碍光仏の御ちかいには、きらわず、えらばれず、これをみちびきたまうをさきとし、むねとするなり。”(唯信鈔文意)
意訳「すべて、善人であっても悪人であっても、身分の高い者であっても低い者であっても、阿弥陀仏(無碍光仏)の本願においては、一切嫌われることもなく、選別されることもありません。そうした人々を皆もれなく導き救うことこそが、阿弥陀仏の誓いの第一の目的であり、根本なのです。」
“すべて、よきひと、あしきひと、とうときひと、いやしきひとを、無碍光仏の御ちかいには、きらわず、えらばれず、これをみちびきたまうをさきとし、むねとするなり。”(唯信鈔文意)
意訳「すべて、善人であっても悪人であっても、身分の高い者であっても低い者であっても、阿弥陀仏(無碍光仏)の本願においては、一切嫌われることもなく、選別されることもありません。そうした人々を皆もれなく導き救うことこそが、阿弥陀仏の誓いの第一の目的であり、根本なのです。」
“摂は
ものの逃ぐるを
追はへとるなり”(浄土和讃異本左訓)
意訳「摂という言葉は背を向けて逃げる者も追いかけて捕まえ救い取るということだ。」
“摂は
ものの逃ぐるを
追はへとるなり”(浄土和讃異本左訓)
意訳「摂という言葉は背を向けて逃げる者も追いかけて捕まえ救い取るということだ。」
“無慚無愧のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば
功徳は十方にみちたまう”(正像末和讃)
意訳「恥じる心も、申し訳なく思う心も持ち合わせていないこの私ですから、
真実の心(清らかな信心)など、ひとかけらもありません。
しかし、そのような私であっても、阿弥陀仏が与えてくださった「南無阿弥陀仏」の名号(み名)を称えるならば、
その功徳は全世界(十方)に満ちわたり、私を包み込んでくださるのです」
“無慚無愧のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば
功徳は十方にみちたまう”(正像末和讃)
意訳「恥じる心も、申し訳なく思う心も持ち合わせていないこの私ですから、
真実の心(清らかな信心)など、ひとかけらもありません。
しかし、そのような私であっても、阿弥陀仏が与えてくださった「南無阿弥陀仏」の名号(み名)を称えるならば、
その功徳は全世界(十方)に満ちわたり、私を包み込んでくださるのです」
“弥陀観音大勢至
大願のふねに乗じてぞ
生死のうみにうかみつつ
有情をよぼうてのせたまう”(正像末和讃)
意訳「阿弥陀如来、観世音菩薩、大勢至菩薩の三尊は、
人々を救おうという大きな願い(大願)の船に乗って、
迷いと苦しみの生死の海に浮かびながら、
「さあ、この船に乗りなさい」とすべての人々に呼びかけ、一人残らず乗せてくださるのです。」
“弥陀観音大勢至
大願のふねに乗じてぞ
生死のうみにうかみつつ
有情をよぼうてのせたまう”(正像末和讃)
意訳「阿弥陀如来、観世音菩薩、大勢至菩薩の三尊は、
人々を救おうという大きな願い(大願)の船に乗って、
迷いと苦しみの生死の海に浮かびながら、
「さあ、この船に乗りなさい」とすべての人々に呼びかけ、一人残らず乗せてくださるのです。」
“釈迦弥陀は慈悲の父母
種種に善巧方便し
われらが無上の信心を
発起せしめたまいけり”(高僧和讃)
意訳「お釈迦様と阿弥陀様は、私たちにとって慈しみ深い父母のような存在です。
お二方は、ありとあらゆる手立て(善巧方便)を尽くして、
私たちがこの上ない悟りへと向かう『信心』を起こすよう、導いてくださったのです」
“釈迦弥陀は慈悲の父母
種種に善巧方便し
われらが無上の信心を
発起せしめたまいけり”(高僧和讃)
意訳「お釈迦様と阿弥陀様は、私たちにとって慈しみ深い父母のような存在です。
お二方は、ありとあらゆる手立て(善巧方便)を尽くして、
私たちがこの上ない悟りへと向かう『信心』を起こすよう、導いてくださったのです」
“まことの信心の人をば、諸仏とひとしと申すなり。また、補処の弥勒とおなじとも申すなり。”(親鸞聖人御消息)
意訳「真実の信心(阿弥陀仏におまかせする心)を得た人は、諸々の仏様たちと同じであると言われます。また、(次に仏になることが約束されている)弥勒菩薩(みろくぼさつ)と同じ位であるとも言われるのです。」
“まことの信心の人をば、諸仏とひとしと申すなり。また、補処の弥勒とおなじとも申すなり。”(親鸞聖人御消息)
意訳「真実の信心(阿弥陀仏におまかせする心)を得た人は、諸々の仏様たちと同じであると言われます。また、(次に仏になることが約束されている)弥勒菩薩(みろくぼさつ)と同じ位であるとも言われるのです。」
“光明寺の和尚の『般舟讃』には、「信心の人はその心すでに浄土に居す」と釈し給えり。居すというは、浄土に、信心の人のこころ、つねにいたりというこころなり。”(親鸞聖人御消息)
意訳「善導大師(光明寺の和尚)は、その著書『般舟讃』の中で、**『信心を得た人は、その心は(死ぬのを待たずとも)すでに浄土にあるのだ』**と解釈されています。
この『居す(ある・居る)』というのは、浄土に、信心を得た人の心が、**常に届いている(至っている)**という意味なのです。」
“光明寺の和尚の『般舟讃』には、「信心の人はその心すでに浄土に居す」と釈し給えり。居すというは、浄土に、信心の人のこころ、つねにいたりというこころなり。”(親鸞聖人御消息)
意訳「善導大師(光明寺の和尚)は、その著書『般舟讃』の中で、**『信心を得た人は、その心は(死ぬのを待たずとも)すでに浄土にあるのだ』**と解釈されています。
この『居す(ある・居る)』というのは、浄土に、信心を得た人の心が、**常に届いている(至っている)**という意味なのです。」
また、わがこころよければ往生すべしとおもうべからず。(中略)よきあしき人をきらわず、煩悩のこころをえらばずへだてずして、往生はかならずするなりとしるべしとなり。(親鸞聖人御消息)
[意訳]「また、自分の心が善い状態であれば往生(極楽浄土へ行くこと)できるはずだ、と思ってはいけません。(中略)阿弥陀仏という仏様は、善人だ悪人だと人を差別せず、煩悩まみれの心であっても分け隔てすることはありません。ただただ『往生は間違いなくできるのだ』と信じなさい、ということです。」
また、わがこころよければ往生すべしとおもうべからず。(中略)よきあしき人をきらわず、煩悩のこころをえらばずへだてずして、往生はかならずするなりとしるべしとなり。(親鸞聖人御消息)
[意訳]「また、自分の心が善い状態であれば往生(極楽浄土へ行くこと)できるはずだ、と思ってはいけません。(中略)阿弥陀仏という仏様は、善人だ悪人だと人を差別せず、煩悩まみれの心であっても分け隔てすることはありません。ただただ『往生は間違いなくできるのだ』と信じなさい、ということです。」
“「一念」は、これ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。”(教行信証)
意訳「「一念」という言葉は、阿弥陀仏の救いを信じ、疑いなき心(信楽)が定まったその瞬間の、極めて短い時間を表している。と同時に、その瞬間にわきあがる、思いも及ばぬほど広大で大きな喜びの心を明らかに示しているのである。」
“「一念」は、これ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。”(教行信証)
意訳「「一念」という言葉は、阿弥陀仏の救いを信じ、疑いなき心(信楽)が定まったその瞬間の、極めて短い時間を表している。と同時に、その瞬間にわきあがる、思いも及ばぬほど広大で大きな喜びの心を明らかに示しているのである。」