法然上人
「生けらば念仏の功つもり、死なば浄土へ参りなん。とてもかくても、此の身には、思いわずろう事ぞなきと思いぬれば、死生ともにわずらいなし」
“悲しきかな愚禿鸞(ぐとくらん)、愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し、名利の太山に迷惑して、定聚(じょうじゅ)の数に入ることを喜ばず、真証の証(さとり)に近づくことを快(たの)しまざることを、恥づべし傷(いた)むべしと”(教行信証)
意訳「悲しいことに、愚かな私、親鸞は、果てしなく広い愛欲の海に沈み、名声や利益を貪るような欲望の山に迷い込み、浄土に往生できる身になったことを喜ばず、悟りに近づくこともうれしいとは思わない。恥ずかしく、心が痛むことだ。」
“悲しきかな愚禿鸞(ぐとくらん)、愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し、名利の太山に迷惑して、定聚(じょうじゅ)の数に入ることを喜ばず、真証の証(さとり)に近づくことを快(たの)しまざることを、恥づべし傷(いた)むべしと”(教行信証)
意訳「悲しいことに、愚かな私、親鸞は、果てしなく広い愛欲の海に沈み、名声や利益を貪るような欲望の山に迷い込み、浄土に往生できる身になったことを喜ばず、悟りに近づくこともうれしいとは思わない。恥ずかしく、心が痛むことだ。」
“浄土真宗は大乗のなかの至極なり”(末灯鈔)
意訳「浄土真宗(阿弥陀如来の本願を真実とする教え)は、すべての人々を救済しようという仏教の精神(大乗)のなかでも、これ以上ない極致である。」
“浄土真宗は大乗のなかの至極なり”(末灯鈔)
意訳「浄土真宗(阿弥陀如来の本願を真実とする教え)は、すべての人々を救済しようという仏教の精神(大乗)のなかでも、これ以上ない極致である。」
“無明煩悩しげくして
塵数(じんじゅ)のごとく遍満(へんまん)す
愛憎違順(あいぞういじゅん)することは
高峰岳山(こうぶがくさん)にことならず”(正像末和讃)
意訳「私たちの無明(真理を知らない心)と煩悩は、
ちりほどの無数にあふれ返っている。
好き嫌い・思い通りになる/ならないという心は、
高い山のように積み重なってしまっている。」
“無明煩悩しげくして
塵数(じんじゅ)のごとく遍満(へんまん)す
愛憎違順(あいぞういじゅん)することは
高峰岳山(こうぶがくさん)にことならず”(正像末和讃)
意訳「私たちの無明(真理を知らない心)と煩悩は、
ちりほどの無数にあふれ返っている。
好き嫌い・思い通りになる/ならないという心は、
高い山のように積み重なってしまっている。」
“師をそしるものをば、謗法のものと申すなり。親を誹るものをば、五逆のものと申すなり。”(親鸞聖人御消息)
意訳「師(先生・仏教の指導者)を悪く言う者は“仏法をそしる者(謗法)”と呼ぶ。
親を悪く言う者は“五逆の罪を犯す者”と呼ばれる。」
※仏教の五大逆罪(ごぎゃくざい)。即座に無間地獄に落ちるといわれる最重罪:
1. 父を殺す(弑父)
2. 母を殺す(弑母)
3. 阿羅漢(悟った聖者)を殺す(殺阿羅漢)
4. 仏の体から血を出す(破僧伽藍、または出仏身血)
5. 僧団を破壊する(破和合僧)
“師をそしるものをば、謗法のものと申すなり。親を誹るものをば、五逆のものと申すなり。”(親鸞聖人御消息)
意訳「師(先生・仏教の指導者)を悪く言う者は“仏法をそしる者(謗法)”と呼ぶ。
親を悪く言う者は“五逆の罪を犯す者”と呼ばれる。」
※仏教の五大逆罪(ごぎゃくざい)。即座に無間地獄に落ちるといわれる最重罪:
1. 父を殺す(弑父)
2. 母を殺す(弑母)
3. 阿羅漢(悟った聖者)を殺す(殺阿羅漢)
4. 仏の体から血を出す(破僧伽藍、または出仏身血)
5. 僧団を破壊する(破和合僧)
“たまたま行信を獲(え)ば、遠く宿縁を慶(よろこ)べ”(教行信証)
意訳「もし思いがけず、念仏の行と阿弥陀仏を信じる心をいただくことができたなら、
それは遠い過去からのご縁のおかげだと深く喜びなさい。」
“たまたま行信を獲(え)ば、遠く宿縁を慶(よろこ)べ”(教行信証)
意訳「もし思いがけず、念仏の行と阿弥陀仏を信じる心をいただくことができたなら、
それは遠い過去からのご縁のおかげだと深く喜びなさい。」
“証(しょう)といふは、すなはち利他円満の妙果なり”(浄土文類聚鈔)
意訳「『証(さとり)』というのは、すなわち、自分だけの完成ではなく、他の者をも利益し、すべてが円満に成就した境地のことなのである」
“証(しょう)といふは、すなはち利他円満の妙果なり”(浄土文類聚鈔)
意訳「『証(さとり)』というのは、すなわち、自分だけの完成ではなく、他の者をも利益し、すべてが円満に成就した境地のことなのである」
“「如是凡夫心想羸劣(にょぜぼんぶしんそうるいれつ)」といへり、すなはちこれ悪人往生の機たることを彰(あらわ)すなり”(教行信証)
意訳「このように、凡夫(煩悩にまみれた人間)の心のはたらきは弱く、劣っていると言われている。
すなわち、これは“悪人こそが阿弥陀仏の救いの対象である”ということを明らかにしているのである。」
“「如是凡夫心想羸劣(にょぜぼんぶしんそうるいれつ)」といへり、すなはちこれ悪人往生の機たることを彰(あらわ)すなり”(教行信証)
意訳「このように、凡夫(煩悩にまみれた人間)の心のはたらきは弱く、劣っていると言われている。
すなわち、これは“悪人こそが阿弥陀仏の救いの対象である”ということを明らかにしているのである。」
“病子においてすなはちひとへに重きがごとし。大王、如来もまたしかなり”(教行信証)
意訳「病気の子を思うとき、親はその子のことをひときわ深く心配し、大切に思うものです。
それと同じように、大王(=阿弥陀如来)も、苦しみ迷う私たちをひときわ深く憐れみ、救おうとなさるのです。」
“病子においてすなはちひとへに重きがごとし。大王、如来もまたしかなり”(教行信証)
意訳「病気の子を思うとき、親はその子のことをひときわ深く心配し、大切に思うものです。
それと同じように、大王(=阿弥陀如来)も、苦しみ迷う私たちをひときわ深く憐れみ、救おうとなさるのです。」
“たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ”(歎異抄)
意訳:たとえ私が法然聖人にだまされて、念仏をして地獄に落ちたとしても、少しも後悔することはありません。
“たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ”(歎異抄)
意訳:たとえ私が法然聖人にだまされて、念仏をして地獄に落ちたとしても、少しも後悔することはありません。
“如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし”(正像末和讃)
意訳「如来(阿弥陀仏)の大いなる慈悲のめぐみは、
自分の身を粉々になるまで砕いても、恩に報いるべきものである。
また、私に仏法を教えてくださった師(お釈迦さま)や善知識(導きの先生方)のご恩も、
骨を砕いてでも感謝申し上げるべきものである。」
“如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし”(正像末和讃)
意訳「如来(阿弥陀仏)の大いなる慈悲のめぐみは、
自分の身を粉々になるまで砕いても、恩に報いるべきものである。
また、私に仏法を教えてくださった師(お釈迦さま)や善知識(導きの先生方)のご恩も、
骨を砕いてでも感謝申し上げるべきものである。」
“善知識・同行にはしたしみちかづけとこそ、ときおかれてそうらえ”(親鸞聖人御消息)
意訳「『善き教えを導いてくれる人(善知識)や、同じ信仰の仲間(同行)とは、親しく交わり、近づいてつきあいなさい』と教えられています。」
“善知識・同行にはしたしみちかづけとこそ、ときおかれてそうらえ”(親鸞聖人御消息)
意訳「『善き教えを導いてくれる人(善知識)や、同じ信仰の仲間(同行)とは、親しく交わり、近づいてつきあいなさい』と教えられています。」
“つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるる”(歎異抄)
意訳「つくべき縁があればともにし、離れるべき縁であれば別の道を歩む」
“つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるる”(歎異抄)
意訳「つくべき縁があればともにし、離れるべき縁であれば別の道を歩む」
“前に生まれんものは後を導き、後に生まれんひとは前を訪(とぶら)へ”(教行信証)
意訳「先に生まれた者は後から来る者を導き、後に生まれた者は先に生まれた者から学びなさい」
“前に生まれんものは後を導き、後に生まれんひとは前を訪(とぶら)へ”(教行信証)
意訳「先に生まれた者は後から来る者を導き、後に生まれた者は先に生まれた者から学びなさい」
“一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり”(歎異抄)
意訳「生きとし生けるものはすべて輪廻転生を繰り返しているので、あるときは父母であり、あるときは兄弟なのである」
“一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり”(歎異抄)
意訳「生きとし生けるものはすべて輪廻転生を繰り返しているので、あるときは父母であり、あるときは兄弟なのである」
“親鸞は弟子一人ももたず候ふ”(歎異抄)
“親鸞は弟子一人ももたず候ふ”(歎異抄)
“遇ひがたくしていま遇ふことをえたり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり”(教行信証)
意訳:めったに出会うことのできない仏法に、いま私は出会うことができた。
なかなか聞くことのできない教えを、すでに聞くことができたのだ。
“遇ひがたくしていま遇ふことをえたり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり”(教行信証)
意訳:めったに出会うことのできない仏法に、いま私は出会うことができた。
なかなか聞くことのできない教えを、すでに聞くことができたのだ。
“行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし”(末灯鈔)
意訳「行(ぎょう)から離れた信(しん)はないと聞いています。
また同じように、信から離れた行もないと考えるべきです。」
“行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし”(末灯鈔)
意訳「行(ぎょう)から離れた信(しん)はないと聞いています。
また同じように、信から離れた行もないと考えるべきです。」
“回心といふこと、ただひとたびあるべし”(歎異抄)
ここでいう「回心」とは、
• 日頃、自分の力(自力)で善を修め、悪を断って往生しようと考えていた心を、
• 阿弥陀仏の本願(他力)の智慧によって、自分の力ではどうにもならない凡夫であることを知り、
• それまでの自力の心をひっくり返して捨て、ひたすら阿弥陀仏の本願に頼りきること
“回心といふこと、ただひとたびあるべし”(歎異抄)
ここでいう「回心」とは、
• 日頃、自分の力(自力)で善を修め、悪を断って往生しようと考えていた心を、
• 阿弥陀仏の本願(他力)の智慧によって、自分の力ではどうにもならない凡夫であることを知り、
• それまでの自力の心をひっくり返して捨て、ひたすら阿弥陀仏の本願に頼りきること
“今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし”(歎異抄)
意訳「この世において、どんなに愛おしく気の毒に思ったとしても、自分の思い通りに救うことはできないのだから、この(自力の)慈悲は最後まで貫くことができない」
“今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし”(歎異抄)
意訳「この世において、どんなに愛おしく気の毒に思ったとしても、自分の思い通りに救うことはできないのだから、この(自力の)慈悲は最後まで貫くことができない」
“往還の回向は他力による”(正信偈)
意訳「私たちが浄土に往き(往相)、再びこの世に還ってくる(還相)という、往還の一切は、阿弥陀如来の本願力によるのである」
“往還の回向は他力による”(正信偈)
意訳「私たちが浄土に往き(往相)、再びこの世に還ってくる(還相)という、往還の一切は、阿弥陀如来の本願力によるのである」
“たとへば日光の雲霧に覆はれるども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし”(正信偈)
意訳:たとえば、太陽の光が雲や霧に覆われているように見えても、
その雲や霧の下では、本当は明るくて暗闇ではないようなものです。
“たとへば日光の雲霧に覆はれるども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし”(正信偈)
意訳:たとえば、太陽の光が雲や霧に覆われているように見えても、
その雲や霧の下では、本当は明るくて暗闇ではないようなものです。
“難思(なんし)の弘誓(ぐぜい)は難度海(なんどかい)を度(ど)する大船、無礙(むげ)の光明は無明の闇を破する恵日(えにち)なり”(教行信証)
意訳:阿弥陀仏の「思いはかることもできないほど深く大きな誓い(=本願)」は、
私たちが苦しみや迷いに満ちた「難しい渡り(=生死・煩悩)の海」を渡らせてくださる大きな船である。
そして、阿弥陀仏の「妨げるもののない光(=無碍の光明)」は、
私たちの心を覆っている「無明(=迷い・無知)」という闇を打ち破ってくださる慈悲の太陽である。
“難思(なんし)の弘誓(ぐぜい)は難度海(なんどかい)を度(ど)する大船、無礙(むげ)の光明は無明の闇を破する恵日(えにち)なり”(教行信証)
意訳:阿弥陀仏の「思いはかることもできないほど深く大きな誓い(=本願)」は、
私たちが苦しみや迷いに満ちた「難しい渡り(=生死・煩悩)の海」を渡らせてくださる大きな船である。
そして、阿弥陀仏の「妨げるもののない光(=無碍の光明)」は、
私たちの心を覆っている「無明(=迷い・無知)」という闇を打ち破ってくださる慈悲の太陽である。