紘聖
banner
kosei0403.bsky.social
紘聖
@kosei0403.bsky.social
大学4年生 22歳 日常垢
日常で思ったことを変な感じに呟いている人です。
私は悟った。この惑星で配属されるという行為は、選択ではなく固定なのだ。希望は制度によって抹消され、別の未来へ進むルートは初めから封鎖されている。訛りが治らない私は、社会システムにとって「規格外」のまま処理され続ける。正しいタイムラインにいた私は、もはや存在しない。ここでは誰も未来を持てない。もちろん、私もその一人だ。

#人工惑星オルビタ
November 25, 2025 at 3:22 PM
人工太陽は毎日同じ時間に昇り、同じ角度で沈む。季節がないのは効率化のためだと説明されているが、実際は「時間感覚を奪うため」の施策だ。変化のない環境では未来を想像する力は弱まり、人は諦めを早く受け入れる。住民たちの無表情は個性の欠落ではなく、構造によって作られた仕様だった。私もその仕様の中に組み込まれていく。
November 25, 2025 at 3:21 PM
生活維持課の勤務は単調だが、その単調さこそがシステムの狙いだった。精神を摩耗させれば反抗心は生まれない。居住区では睡眠サイクルも照明も惑星管理局に統制され、人々は「疲れ切った従順さ」を保つために最適化されている。私は帰宅するたび、意識が薄く削られていく感覚を覚えた。この惑星は労働者を管理するための巨大な収容体だ。
November 25, 2025 at 3:20 PM
ここでは平準化言語の使用が義務化され、訛りは統計外のノイズとして扱われる。発音が合わない者は、人格の互換性が低いと分類され、上位部署への移動権が剥奪される。言語はただのコミュニケーション手段ではなく、階級を固定するための基準だ。私は地球旧区の訛りが抜けず、その時点で「下層固定」が確定した。ここでは人間より言語規格のほうが価値を持っている。
November 25, 2025 at 3:19 PM
人工惑星《オルビタ群層-3》に配属された瞬間、私の人生は制度に吸収された。希望部署には一切触れられず、通知文には「適正に基づく自動振り分け」とだけ書かれていた。実際のところ、適正など存在しない。下層惑星へ送られるのは、中央統括が労働要員として扱いやすいと判断した者だけだ。人工惑星は才能を伸ばす場所ではなく、従順な労働力を固定化する装置だった。
November 25, 2025 at 3:18 PM
その展覧会は実に愉快だ。誰にも届かず、記録にも残らず、夜が明ければすべて消える。それでも確かに開催されたという手応えが残る。映画は物語を語り、私はその断片を絵にする。観客が一人しかいないのに、満たされる展示会が存在するという事実が面白い。静かな夜こそ、いちばん贅沢な美術館なのだと思う。

#空想アート
November 24, 2025 at 4:39 PM
同じ映画でも、二度と同じ絵は描けない。気分、体温、疲れ具合、ほんの少しの違いで色が変わる。昨日の青は、今日は鈍い灰色になる。映画は同じでも、私が変われば展覧会も変わる。だから私は何度も同じ作品を観る。内容を思い出すためではなく、今の自分がどんな色で世界を見ているのか確かめるために。
November 24, 2025 at 4:38 PM
観客は私しかいない。それが心地よい。感想を求められない展示ほど自由なものはない。美しいと思った瞬間だけを保存し、理解も説明も放棄できる。映画の本編より、私の中で再構築された断片のほうが鮮やかに残ることがある。記憶は勝手に編集し、私の好きな構図だけを選び取ってくれる。これは鑑賞ではなく、私だけの制作だ。
November 24, 2025 at 4:37 PM
その空想アートの展覧会は、いつも真夜中に開かれる。照明はなく、記憶の中の淡い光だけがキャンバスを照らす。映画が終わって部屋が静まりかえると、私の頭の中にだけ作品が並び始める。誰も招待していないのに、ひとつずつ絵が浮かび上がり、壁のない美術館が完成する。昼間には存在しない、深夜限定の展示空間だ。
November 24, 2025 at 4:36 PM
私は映画を見るとき、物語そのものより一瞬の光景に意識が吸い寄せられる。俳優のまばたき、カーテンの揺れ、窓に反射した街灯。そこだけが切り取られて、頭の中で絵の具に変換されていく。スクリーンは動いているのに、私の中では時間が止まり、静止画として保存される。映画鑑賞というより、私は“描きたい瞬間を探す散歩”をしているのかもしれない。
November 24, 2025 at 4:35 PM
だから私は、習慣そのものより余白を守るべきだと思うようになった。続ける力は気合ではなく、余裕の中でしか生まれない。忙しさが去るのを待つのではなく、忙しさの中にわずかな隙間を作る。それだけで生活はゆっくり戻ってくる。習慣とは強さの証ではなく、余白の形だ。崩れた日があっても、戻れる場所さえあれば問題ないのだと思う。

#余白の形
November 23, 2025 at 5:02 AM
忙しさは必ずしも悪ではない。必要な時期もあるし、前へ進む推進力になることもある。ただ問題なのは、気づかないうちに生活の主導権を奪っていくことだ。自分で選んでいるつもりでも、実際は予定に押し流されていただけだったと後で気づく。忙しさは敵ではない。声を上げずに侵食してくる現象だからこそ厄介なのだ。
November 23, 2025 at 5:01 AM
崩れるときは一瞬なのに、立て直すには時間がかかるのが習慣の厄介なところだ。三日リズムが乱れただけで再開には倍の気力が必要になる。習慣とは達成の証ではなく、維持している状態そのものだと分かる。だから忙しさに振り回されると、自分が小さく不安定に揺れる感覚が生まれる。できない自分に落ち込むのではなく、揺らぐのが普通だと受け止めたほうがいいのかもしれない。
November 23, 2025 at 5:00 AM
人は時間に追われ始めると、選択ではなく反射で動くようになる。何を優先するか考える余裕もなく、ただ目の前のタスクを処理するだけになる。その瞬間から、自分の生活は自分で動かすものではなく動かされるものに変わる。忙しさは成果を積み上げているように見えるが、実際には日常の基盤を削っていく。失っているのは能力ではなく、思考のスペースなのだ。
November 23, 2025 at 4:59 AM
忙しくなると、それまで当たり前のように続けてきた習慣が簡単に崩れる。毎朝やっていたことも、予定が詰まった瞬間に「今日は無理」で済まされ、気づけば触れないまま数日経っている。習慣は努力で守っているように見えて、実際は余裕の上に立っているだけだと痛感する。予定が一つ増えただけで、生活の流れは静かに乱れる。忙しさは体力を奪うのではなく、ペースを奪う現象だと思った。
November 23, 2025 at 4:58 AM
そして今日も同じループを繰り返す。始める前はナーバス、始めれば集中、終われば満足、翌朝また振り出し。それでも進めるのは、作業中の私の強さを知っているからだ。弱い私も強い私も、どちらも私の一部。明日またナーバスになっても、たぶん私はまた机に向かう。

#ナーバスループ
November 19, 2025 at 3:39 PM
頭では理解している。動けば心は軽くなるし、作業中の私は強い。それでも、朝になるとまた憂鬱が戻ってくる。やれば楽になると分かっているのに、やる前だけは動けない。これは怠けではなく、心のクセなのだと思う。私の中には、始める前だけ極端に弱くなる部分がある。
November 19, 2025 at 3:38 PM
進めば進むほど、私の心は軽くなっていく。達成感も増えてきて、「意外と嫌いじゃないな」と気づき始める。けれど不思議なのは、次の日になるとまた同じナーバスな気持ちが復活することだ。昨日の集中力が本当に自分だったのか疑うほど、私は始める前の弱気な私にリセットされる。
November 19, 2025 at 3:37 PM
けれど、一度作業を始めてしまえば別人になる。手を動かし、文章を書き、資料を読んでいるうちに、さっきまでのナーバスさはどこかへ消えてしまう。むしろ心が落ち着き、集中のリズムに入ると静かに満たされていく。始める前の重さは幻だったのかと思うくらい、作業中の私は機嫌がいい。
November 19, 2025 at 3:36 PM
課題を前にすると、まるで心が縮むような感覚になる。まだ何もしていないのに、胸の奥がざわついて、机に近づくだけでナーバスになる。実際の作業より、この始める前の気分が一番厄介だ。何か大きな壁を前にしているような気がして、余計に腰が重くなる。私は毎回この入口でつまずく。
November 19, 2025 at 3:35 PM
私はこれからも矛盾したまま生きていく。他人の消失には無関心で、身近な人には必死にしがみつく。それでいい。私は世界全体を救うつもりはない。ただ、大切な人が今日も呼吸しているという事実が欲しいだけだ。矛盾ごと抱えたまま、それでも私は生きていく。

#矛盾した生き物
November 18, 2025 at 5:14 PM
それでも「好きに消えれば」と言い切れない自分もいる。見送ったあとに罪悪感が残るのが分かっているからだ。私は優しくもないし聖人でもない。ただ、自分の良心に傷がつくのが怖い。それでも、沈黙したまま見送るほど冷たくもなれない。その中途半端さこそが私だ。
November 18, 2025 at 5:13 PM
私は人類を愛していない。ただ、選んだ数人だけは消えてほしくない。だから「消えたいなら勝手にすれば」と思う一方で、「お前は消えるな」と願ってしまう。正しさではなく、わがままだけが基準になっている。それでも私は、それが私の本音だと思っている。
November 18, 2025 at 5:12 PM
なのに、友人が「消えたい」と口にしたとき、私は一瞬で動揺する。他人が消えるのは受け入れられても、身近な人が消えることだけは拒絶したい。私は矛盾している。守りたい範囲は狭く、その外側は他人事。だがその差を埋める気もない。私はそんな都合のいい人間だ。
November 18, 2025 at 5:11 PM
私は時々思う。誰かが勝手に消えたとしても、遠くの他人なら仕方ないと感じてしまう。悲しめと言われてもできないし、巻き込まれなかった自分に安堵することさえある。冷たいと自覚しているが、それは私が壊れないための距離感でもある。世界全体に優しくできるほど器用ではない。
November 18, 2025 at 5:10 PM