実際、多くの和歌山市民にとって読書や映画のインフラは駅やショッピングモールの書店や図書館、ネットやアプリの中にすでにあり、独立系の書店がそれらと差別化しようとすれば、編集性やイベント、関係性によってコミュニティ的に拡大している(ように見える)現在の行動は合理的であると思うのだが。
実際、多くの和歌山市民にとって読書や映画のインフラは駅やショッピングモールの書店や図書館、ネットやアプリの中にすでにあり、独立系の書店がそれらと差別化しようとすれば、編集性やイベント、関係性によってコミュニティ的に拡大している(ように見える)現在の行動は合理的であると思うのだが。
書店巡りが趣味の私は本屋プラグのころから本町文化堂の利用者で、帰和するとたまに何かを買うが、店で会話をしたことはないし、長く滞在することもない。認識されたくないからだ。
コミュニティの外側で過ごしたい人間にとっては、その「非干渉」こそがサードプレイスたり得る条件である。
もし「あなたを覚えている」と示す態度(声かけや常連扱い、文脈共有の前提)が強まるなら、私のような利用者にとっては利用のハードルが一気に上がり、足が遠のく可能性が高い。
書店巡りが趣味の私は本屋プラグのころから本町文化堂の利用者で、帰和するとたまに何かを買うが、店で会話をしたことはないし、長く滞在することもない。認識されたくないからだ。
コミュニティの外側で過ごしたい人間にとっては、その「非干渉」こそがサードプレイスたり得る条件である。
もし「あなたを覚えている」と示す態度(声かけや常連扱い、文脈共有の前提)が強まるなら、私のような利用者にとっては利用のハードルが一気に上がり、足が遠のく可能性が高い。
インタビューで数字が語られないこと自体は不自然ではないとしても、自身のモデルの前提条件が伏せられたままだと、結局は「本以外の活動」で帳尻を合わせる構図と同型に見え、一般化可能性が揺らぐ。
インタビューで数字が語られないこと自体は不自然ではないとしても、自身のモデルの前提条件が伏せられたままだと、結局は「本以外の活動」で帳尻を合わせる構図と同型に見え、一般化可能性が揺らぐ。
ここには、俯瞰を①住民に要求する態度として退けるのか、②分析の手段として退けるのか、③外部の権力性(コンサル的介入)として退けるのか、といった射程の整理がない。否定したはずの俯瞰が、実践を語る語彙として再登場している印象を与える。
ここには、俯瞰を①住民に要求する態度として退けるのか、②分析の手段として退けるのか、③外部の権力性(コンサル的介入)として退けるのか、といった射程の整理がない。否定したはずの俯瞰が、実践を語る語彙として再登場している印象を与える。
にもかかわらず本町文化堂は強い編集性(個性的な選書)を前提としており、「インフラ」という語が要請する“予測可能性・低摩擦・アクセスの平等”と緊張関係を持ちうる。
にもかかわらず本町文化堂は強い編集性(個性的な選書)を前提としており、「インフラ」という語が要請する“予測可能性・低摩擦・アクセスの平等”と緊張関係を持ちうる。
しかし、“当然いる”という承認は共同体が個人に与える所属感そのものであり、氏自身が述べる「コミュニティはどうやっても排他的」という診断と表裏一体である。
規範同調と、逸脱への排除を生む力学も働くのではないか。
しかし、“当然いる”という承認は共同体が個人に与える所属感そのものであり、氏自身が述べる「コミュニティはどうやっても排他的」という診断と表裏一体である。
規範同調と、逸脱への排除を生む力学も働くのではないか。
嶋田氏は「コンテンツごとに客層が分かれ、“この店だから参加”になっていない」ことで内輪化を回避しているつもりかもしれないが、外部からは店主中心の頻繁な発信や文脈共有が前提に見え、初見参加の心理コストがむしろ上がる可能性がある。
嶋田氏は「コンテンツごとに客層が分かれ、“この店だから参加”になっていない」ことで内輪化を回避しているつもりかもしれないが、外部からは店主中心の頻繁な発信や文脈共有が前提に見え、初見参加の心理コストがむしろ上がる可能性がある。
イメージ自体も価値として消費されうる以上、論点はイメージそのものではなく、イメージが作品や体験(本・映画等)の消費を代替し、コンテンツの売上や質の循環に接続しない状態を問題化しているのだろう。
しかし、その境界が明示されないままでは、どこからが批判対象なのかが曖昧になる。
たとえばシネマ203のような実践も、映画(作品)を実際に回しているのか、それとも「映画館がある」という記号価値を提供しているのかが外部から判別しにくく、イメージ批判との接続が宙に浮く。
イメージ自体も価値として消費されうる以上、論点はイメージそのものではなく、イメージが作品や体験(本・映画等)の消費を代替し、コンテンツの売上や質の循環に接続しない状態を問題化しているのだろう。
しかし、その境界が明示されないままでは、どこからが批判対象なのかが曖昧になる。
たとえばシネマ203のような実践も、映画(作品)を実際に回しているのか、それとも「映画館がある」という記号価値を提供しているのかが外部から判別しにくく、イメージ批判との接続が宙に浮く。
インタビューでも文化を「コンテンツ」「消費できるもの」と定義し、地方では「文化的だというイメージ」だけが消費され、収益は行政委託などへ逃げがちだと批判したうえで、「売れないのに賑わうって最悪」とまで言い切る。
ただし、この議論は概念の切り分けと運用設計が十分に語られないため、論旨の整合が揺らぐ箇所が目立つ。
インタビューでも文化を「コンテンツ」「消費できるもの」と定義し、地方では「文化的だというイメージ」だけが消費され、収益は行政委託などへ逃げがちだと批判したうえで、「売れないのに賑わうって最悪」とまで言い切る。
ただし、この議論は概念の切り分けと運用設計が十分に語られないため、論旨の整合が揺らぐ箇所が目立つ。
しかし、それらをつなぐための定義(概念の境界)・運用仕様(設計)・収益モデル(実装)の提示が薄く、最終的な説得根拠が「感覚」へ回収されやすい。
少なくとも、①イメージ/コンテンツの境界、②インフラとしての運用仕様、③反コミュニティと承認の整合、④俯瞰批判の射程、⑤収益モデルの輪郭、が示されない限り、この主張は“個人の感覚”の正当化として読まれやすい。
しかし、それらをつなぐための定義(概念の境界)・運用仕様(設計)・収益モデル(実装)の提示が薄く、最終的な説得根拠が「感覚」へ回収されやすい。
少なくとも、①イメージ/コンテンツの境界、②インフラとしての運用仕様、③反コミュニティと承認の整合、④俯瞰批判の射程、⑤収益モデルの輪郭、が示されない限り、この主張は“個人の感覚”の正当化として読まれやすい。