加藤諦三先生のご著書をたくさん読むことにより、人生を変えていただきました。自己実現をめざしています。
少し背伸びしたことを書いています。自分の思索と文体を磨きたいためです。なので、まだ、いっていることが、浅かったりするかもしれません。
作家になるためがんばってます。このことはXでも語っています。
⇩翻訳の小説や映画から人の心を考えるブログ
https://a-y-wise-storise.com/
文庫の著者の写真を見たとき、大学教授の風貌に見えた。それがよかったので買ったというのがひとつあるけど、じっさいは、ビジネスの世界の人だった。大学に残りたかったけど、不運でそれはできなかった人らしいから、そんな雰囲気があるのかな。
世界の探求は、ときに超常現象に踏み込む。ユングもそうだった。田坂広志さんのご本もそういう部分がある。
『すべては導かれている』(田坂広志 PHP文庫)。
世界の見え方は一つではないのだろう。
文庫の著者の写真を見たとき、大学教授の風貌に見えた。それがよかったので買ったというのがひとつあるけど、じっさいは、ビジネスの世界の人だった。大学に残りたかったけど、不運でそれはできなかった人らしいから、そんな雰囲気があるのかな。
世界の探求は、ときに超常現象に踏み込む。ユングもそうだった。田坂広志さんのご本もそういう部分がある。
『すべては導かれている』(田坂広志 PHP文庫)。
世界の見え方は一つではないのだろう。
そういうわけで読書が捗らない。なんだか、身を入れて読めるものがないのだ。同じ系統のばかりを読みすぎたせいかもしれない。そこから、ひととき離れるか。
あるいみ、読書依存症である。刺激に刺激を重ねて、麻痺している可能性がある。わたしは、砂漠で水を求める旅人のように、一冊のご本、一冊の栄養、一冊の救世主を求めているのである。
本屋に行きますか、笑。
そういうわけで読書が捗らない。なんだか、身を入れて読めるものがないのだ。同じ系統のばかりを読みすぎたせいかもしれない。そこから、ひととき離れるか。
あるいみ、読書依存症である。刺激に刺激を重ねて、麻痺している可能性がある。わたしは、砂漠で水を求める旅人のように、一冊のご本、一冊の栄養、一冊の救世主を求めているのである。
本屋に行きますか、笑。
続きは下記リンクよりお読みください!!
note.com/kina_ay/n/n6...
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人生は、些細なことの変数がわたしたちの運命をつくっていく。なにが、じぶんにとってよいものか? というのは、わからないところがありますね。
人生は、些細なことの変数がわたしたちの運命をつくっていく。なにが、じぶんにとってよいものか? というのは、わからないところがありますね。
よい日をお過ごしくださいね!!
よい日をお過ごしくださいね!!
さいきん、そういう気持ちが起こらないように、気をつけて世の中に接している。うがちすぎて人を見ないし、起こってしまったことにこだわらない。
ひとは、朗らかな方が、人から受け入れられる。それは、あるのだと思う。屈託のないコミュニケーションをとっていると、いわゆる、わたしのまわりの世界が明るくなってきた。
それは、まるで魔術のように、環境のイメージが変わったから面白い。楽しいことばかり、ということでもないけど、そういうことで、運が良くなるというのは、あるのかもしれない。
さいきん、そういう気持ちが起こらないように、気をつけて世の中に接している。うがちすぎて人を見ないし、起こってしまったことにこだわらない。
ひとは、朗らかな方が、人から受け入れられる。それは、あるのだと思う。屈託のないコミュニケーションをとっていると、いわゆる、わたしのまわりの世界が明るくなってきた。
それは、まるで魔術のように、環境のイメージが変わったから面白い。楽しいことばかり、ということでもないけど、そういうことで、運が良くなるというのは、あるのかもしれない。
人は自分を守るものをいろいろ手に入れようとする。ある人にとって、それがすべてではないが、その「盾」が、結果的に人を蔑ろにするものであることがある。
マイノリティといわれる人たちより、こういう人たちのほうが、わたしには、付き合いづらい感じがする。
わたしは、人がどのような属性を持つか、より、人間としての「器」(ま、まあ、大袈裟な表現かもしれないが)の方が気になるところである。根源的なところをみたいのである。
人は自分を守るものをいろいろ手に入れようとする。ある人にとって、それがすべてではないが、その「盾」が、結果的に人を蔑ろにするものであることがある。
マイノリティといわれる人たちより、こういう人たちのほうが、わたしには、付き合いづらい感じがする。
わたしは、人がどのような属性を持つか、より、人間としての「器」(ま、まあ、大袈裟な表現かもしれないが)の方が気になるところである。根源的なところをみたいのである。
自分の持っている視点と他人の視点は、かなり違う。わたしがふつうにある把握をしていることを、え? と訝しがられて、こっちも、え? わからないの? となってしまうけど、そのときわたし自身も相手をわかっていない。
理由なく、従わされてきた。ただ、そうしなさい、といわれて。わたしは納得いかなくて、モヤモヤしっぱなしだったが、逆らえなかった。
その人たちも、そうやって盲目的に従ってきたのだろう。その気持ち悪さに、わたしは、「理由」を知りたいのかもしれない。必要なのは、還元主義でない視点、現実感だ。
自分の持っている視点と他人の視点は、かなり違う。わたしがふつうにある把握をしていることを、え? と訝しがられて、こっちも、え? わからないの? となってしまうけど、そのときわたし自身も相手をわかっていない。
理由なく、従わされてきた。ただ、そうしなさい、といわれて。わたしは納得いかなくて、モヤモヤしっぱなしだったが、逆らえなかった。
その人たちも、そうやって盲目的に従ってきたのだろう。その気持ち悪さに、わたしは、「理由」を知りたいのかもしれない。必要なのは、還元主義でない視点、現実感だ。
そのセンチメンタルのせいなのか、さいきん、むかしの空気感を思い出そうとしてしまう。世間のそれは、大きく変わった。幼い日を生きたあそこは、もうないのである。
いま、をなつかしむことも、年をさらに取ればあるのだろう。昔ばかりに目をやってはいけない。このいまも、生きるに値する時代なのだ。
わたしは、歩き、走り、飛び、笑い、泣く。幼かった日にあの時代にまったく同化したような生き方は、もうできないけれど、ここに在ることにありたい。
そのセンチメンタルのせいなのか、さいきん、むかしの空気感を思い出そうとしてしまう。世間のそれは、大きく変わった。幼い日を生きたあそこは、もうないのである。
いま、をなつかしむことも、年をさらに取ればあるのだろう。昔ばかりに目をやってはいけない。このいまも、生きるに値する時代なのだ。
わたしは、歩き、走り、飛び、笑い、泣く。幼かった日にあの時代にまったく同化したような生き方は、もうできないけれど、ここに在ることにありたい。
人の心理のメカニズムを、ときにこわい、とわたしは思う。そんな非現実に生きている人は、とつぜん、鬱になったりする場合があるようだ。
人の心理のメカニズムを、ときにこわい、とわたしは思う。そんな非現実に生きている人は、とつぜん、鬱になったりする場合があるようだ。
きのう、誕生日で、わたしはいい歳だが、親はプレゼント何がいい? と聞いてくる。
わたしは、でも、親と話すと安心してしまう。いろいろ、あるのだけど、からだは、遺伝子は全肯定だ。兜を脱ぐべきなのか。
うん、哲学のすんごい辞書が欲しいから、半分出してください……。
親に限らず、人間、異常なフェロモン(?)に惹かれると碌なことないんだが。
きのう、誕生日で、わたしはいい歳だが、親はプレゼント何がいい? と聞いてくる。
わたしは、でも、親と話すと安心してしまう。いろいろ、あるのだけど、からだは、遺伝子は全肯定だ。兜を脱ぐべきなのか。
うん、哲学のすんごい辞書が欲しいから、半分出してください……。
親に限らず、人間、異常なフェロモン(?)に惹かれると碌なことないんだが。
もはや、世界を二分法、「強い」か「弱い」かという価値観でしか見れないのか。譲ることが弱さということが常識的になったのか。
過度の謙遜は、たしかに相手を傲慢にするし、譲り過ぎていつも「かす」みたいなものしか手にできない人がいる。そういう世界が可視化された。だから、気付いた人は、復讐心を持って「ぶつかる」ことにしたのかもしれない。
弱さを「相手を攻撃すること」で誤魔化すのは、善意を食い物にしてきた人たちと、そう姿勢は変わらないとは思う。
優しさと強さというのを、さいきん、わたしは、考える。
もはや、世界を二分法、「強い」か「弱い」かという価値観でしか見れないのか。譲ることが弱さということが常識的になったのか。
過度の謙遜は、たしかに相手を傲慢にするし、譲り過ぎていつも「かす」みたいなものしか手にできない人がいる。そういう世界が可視化された。だから、気付いた人は、復讐心を持って「ぶつかる」ことにしたのかもしれない。
弱さを「相手を攻撃すること」で誤魔化すのは、善意を食い物にしてきた人たちと、そう姿勢は変わらないとは思う。
優しさと強さというのを、さいきん、わたしは、考える。