末法の教主・御本仏・日蓮大聖人の御金言。
創価学会初代会長・牧口先生・2代目会長・戸田先生・3代目会長・池田先生の御指導。
(副教学部長・河合師範御指導/辻副会長御指導)
見た目は、勝つかどうかわからない、不安定なようであっても、死に物狂いで戦えば、その方が強いのである。
いわんや、我々には、信心がある。
法華経に勝る兵法はない。
祈れば、智慧が出る。
勇気がわく。
もう一重、深い次元で勝っていけるのである。
「小さな心のわだかまりを消して下さい。もっともっと崇高なる広宣流布という目的にふさわしい前進をさせて下さい!」
こうお願いしていくべきです。
何でも御本尊に直結すればいいのです。
「小さな心のわだかまりを消して下さい。もっともっと崇高なる広宣流布という目的にふさわしい前進をさせて下さい!」
こうお願いしていくべきです。
何でも御本尊に直結すればいいのです。
信仰していても謗法を厳に戒めなくては成仏はできず、却って罰を受ける。
御本尊を疑う事が最も重大な謗法となる。
信仰していても謗法を厳に戒めなくては成仏はできず、却って罰を受ける。
御本尊を疑う事が最も重大な謗法となる。
順調なときこそ、「油断は大敵」である。
日蓮大聖人は、主君の信頼を勝ち得て、苦境を脱しつつあった四条金吾に対して、「心に深く用心しなさい」(📖1176・通解)等と、このようなときこそ心を引き締めていくべきだと教えておられる。
順調なときこそ、「油断は大敵」である。
日蓮大聖人は、主君の信頼を勝ち得て、苦境を脱しつつあった四条金吾に対して、「心に深く用心しなさい」(📖1176・通解)等と、このようなときこそ心を引き締めていくべきだと教えておられる。
「御聖訓には『つるぎなんども・すすまざる人のためには用る事なし』(全1124・新1633)と仰せです。無量の智慧をもたらす法華経という剣も、臆病であっては、使いこなすことはできません。
🚨苦手だから避けようと思う心。
仕方ないのだと自らの臆病や怠惰を正当化しようという心――その自分の弱さに挑み、打ち勝つ勇気をもってください。そこに自身の人間革命があり、一切の勝利の要諦があります。
「御聖訓には『つるぎなんども・すすまざる人のためには用る事なし』(全1124・新1633)と仰せです。無量の智慧をもたらす法華経という剣も、臆病であっては、使いこなすことはできません。
🚨苦手だから避けようと思う心。
仕方ないのだと自らの臆病や怠惰を正当化しようという心――その自分の弱さに挑み、打ち勝つ勇気をもってください。そこに自身の人間革命があり、一切の勝利の要諦があります。
信心は「魔」との戦いである。信心が弱まれば必ず「魔」は勢いを増す。信心を破られてしまう。外から襲いくる魔と戦う事は、そのまま自身の内なる魔との戦いなのである。それなくして広布の前進も自身の一生成仏もない。「魔」との戦いを失った信心は、結局、観念論に陥ってしまうし、御聖訓通りの仏道修行とはいえない。
妙法の世界にあって、誉れの人、偉大な人とは誰か。それは信心強き人である。勇猛の心で魔と戦う人である。信心が強いか弱いか、広宣流布への一念が深いか浅いか。ここに仏法の厳しき因果律がある。
信心は「魔」との戦いである。信心が弱まれば必ず「魔」は勢いを増す。信心を破られてしまう。外から襲いくる魔と戦う事は、そのまま自身の内なる魔との戦いなのである。それなくして広布の前進も自身の一生成仏もない。「魔」との戦いを失った信心は、結局、観念論に陥ってしまうし、御聖訓通りの仏道修行とはいえない。
妙法の世界にあって、誉れの人、偉大な人とは誰か。それは信心強き人である。勇猛の心で魔と戦う人である。信心が強いか弱いか、広宣流布への一念が深いか浅いか。ここに仏法の厳しき因果律がある。
(新版御書一七四五㌻)
(新版御書一七四五㌻)
題目の力は素晴らしく、日々に生命深部に仏種が育ち、福智が生じ、生命の濁り、宿業が消えているのです。
磨くべきは信心、深めるべきは教学、増すべきは唱題、戒めるべきは謗法でしょう。
題目の力は素晴らしく、日々に生命深部に仏種が育ち、福智が生じ、生命の濁り、宿業が消えているのです。
磨くべきは信心、深めるべきは教学、増すべきは唱題、戒めるべきは謗法でしょう。
魔は誰の生命にも潜んでいます。
油断が生じ惰性に陥ると、たちまち魔が動き出し身を破っていきます。
魔はいつもこちらの隙を伺っているからです。
少しでも油断があれば、その隙間から魔は侵入する。
絶えず前進していく信心によってしか魔を破る事はできない。
魔は誰の生命にも潜んでいます。
油断が生じ惰性に陥ると、たちまち魔が動き出し身を破っていきます。
魔はいつもこちらの隙を伺っているからです。
少しでも油断があれば、その隙間から魔は侵入する。
絶えず前進していく信心によってしか魔を破る事はできない。
生命が変わらないとまたやるから。決意すればよい。
これから良くなればいい。後ろ向き運転は事故の元。
過去のことは振り返らないこと。良くなればいい。過去のことが活きてくるから。振り返っても落ち込むだけ。
いつも前向き、強気でいい。先生は「タッチの差だ」と言われている。
生命が変わらないとまたやるから。決意すればよい。
これから良くなればいい。後ろ向き運転は事故の元。
過去のことは振り返らないこと。良くなればいい。過去のことが活きてくるから。振り返っても落ち込むだけ。
いつも前向き、強気でいい。先生は「タッチの差だ」と言われている。
煩悩即菩提です。無上の悟り、菩提を求める欲は即ち菩提となる
自分はこの程度でいい…というのは、謙虚に似て生命の可能性を低く見る大慢だ
煩悩即菩提です。無上の悟り、菩提を求める欲は即ち菩提となる
自分はこの程度でいい…というのは、謙虚に似て生命の可能性を低く見る大慢だ
何も怖いものはない。
我が身は、本来は妙法の当体である。
だから題目を根本にすれば
必ず勝利の智慧と勇気が現れる…との「以信代慧の確信」が鍵となる。
これが日蓮仏法の不退転の要諦です。
何も怖いものはない。
我が身は、本来は妙法の当体である。
だから題目を根本にすれば
必ず勝利の智慧と勇気が現れる…との「以信代慧の確信」が鍵となる。
これが日蓮仏法の不退転の要諦です。
私たちが唱える題目の”光明”は、全宇宙のすみずみにまで届き
無間地獄の境涯で苦しむ衆生をも照らし、即身成仏させていくのである。
私たちが唱える題目の”光明”は、全宇宙のすみずみにまで届き
無間地獄の境涯で苦しむ衆生をも照らし、即身成仏させていくのである。
人々の成仏を妨げる魔の働きの根源をなすものです。
魔王という固有の存在がいるのではなく、
人々の己心に具わった生命の働きです。
ゆえに、成仏というのは
本質的には外敵との戦いではなく
我が生命に潜む魔性との熾烈な戦いなんです。
つまり、内なる魔性を克服していってこそ人間革命、境涯革命があり
幸せを築く大道が開かれるんです。
人々の成仏を妨げる魔の働きの根源をなすものです。
魔王という固有の存在がいるのではなく、
人々の己心に具わった生命の働きです。
ゆえに、成仏というのは
本質的には外敵との戦いではなく
我が生命に潜む魔性との熾烈な戦いなんです。
つまり、内なる魔性を克服していってこそ人間革命、境涯革命があり
幸せを築く大道が開かれるんです。
「妙法」に「わが生命」を合致させゆく為の唱題です。ゆえに祈りとは、自身の一念における、法性と無明との熾烈な闘争です。この戦いに勝ち〝自分の生命が妙法の当体である〟と確信しきる事が「成仏の直道」であるとの御断言なのです。
即ち、無明に覆われて気づかなかった妙法と一体の本来の自己に目覚める戦いです。ですから「苦楽ともに思い合せて」(1143㌻)、迷いの自分に克ちゆく唱題を重ねる事が最も大切なのです。
「妙法」に「わが生命」を合致させゆく為の唱題です。ゆえに祈りとは、自身の一念における、法性と無明との熾烈な闘争です。この戦いに勝ち〝自分の生命が妙法の当体である〟と確信しきる事が「成仏の直道」であるとの御断言なのです。
即ち、無明に覆われて気づかなかった妙法と一体の本来の自己に目覚める戦いです。ですから「苦楽ともに思い合せて」(1143㌻)、迷いの自分に克ちゆく唱題を重ねる事が最も大切なのです。
透徹した仏法の因果律に照らすならば、運命は嘆き悲しむものではない。決然と立ち向かうものである。否、断固として創り変えていくものである。
我が師・戸田先生は、師子王でありました。故に、その弟子である私も、一切の悲哀や感傷を打ち破りました。私の胸奥には、広布の師匠の為に命を捧げて戦う随喜が燃え滾っていた。この師弟不二の烈々たる一念を因として、正義の反転攻勢の渦を巻き起こしてい...
透徹した仏法の因果律に照らすならば、運命は嘆き悲しむものではない。決然と立ち向かうものである。否、断固として創り変えていくものである。
我が師・戸田先生は、師子王でありました。故に、その弟子である私も、一切の悲哀や感傷を打ち破りました。私の胸奥には、広布の師匠の為に命を捧げて戦う随喜が燃え滾っていた。この師弟不二の烈々たる一念を因として、正義の反転攻勢の渦を巻き起こしてい...
建設は死闘。破壊は一瞬である。悪が盛んになれば、善が滅びる。
不惜身命で悪と戦う勇者がいる限り、善は守られる。
しかし、もしその精神が失われれば、崩壊はすぐに始まってしまう。
このことを、よくよく心に留めていただきたい。【謗法】
建設は死闘。破壊は一瞬である。悪が盛んになれば、善が滅びる。
不惜身命で悪と戦う勇者がいる限り、善は守られる。
しかし、もしその精神が失われれば、崩壊はすぐに始まってしまう。
このことを、よくよく心に留めていただきたい。【謗法】
見ていてわかります。
「こんなに信心したのに」「私はこれだけ戦ってきたのに」
それ自体が退転なのです。
どんな事があっても御本尊様を放さない、信心だけは大聖人様の仰せ通りに進んでいく事です。
「仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影ななめなり」(新1346・全992)
見ていてわかります。
「こんなに信心したのに」「私はこれだけ戦ってきたのに」
それ自体が退転なのです。
どんな事があっても御本尊様を放さない、信心だけは大聖人様の仰せ通りに進んでいく事です。
「仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影ななめなり」(新1346・全992)
先生は、私たちに具わる何ものにも負けない仏の生命を、「内発の力」と表現されています。「仏界の生命という『内発の力』は、誰も、何者も、奪い去ることはできません」「負けずに祈り抜く。その心が、すでに仏です。断固として現実の勝利となって現れていきます」
そして、諸天を揺り動かすような誓願の祈りこそが、「わが胸中の仏の生命を自由自在に現していく」要諦であることを教えてくださっています。
先生は、私たちに具わる何ものにも負けない仏の生命を、「内発の力」と表現されています。「仏界の生命という『内発の力』は、誰も、何者も、奪い去ることはできません」「負けずに祈り抜く。その心が、すでに仏です。断固として現実の勝利となって現れていきます」
そして、諸天を揺り動かすような誓願の祈りこそが、「わが胸中の仏の生命を自由自在に現していく」要諦であることを教えてくださっています。
そうだ!広布の為、師匠の為にと題目を唱えている。友人を幸せにしようと悩んで祈っている。この地涌の菩薩の祈りが叶わない訳がない!――命の底から喜びが込み上げ、歓喜と感謝の祈りに徹する事ができ...
そうだ!広布の為、師匠の為にと題目を唱えている。友人を幸せにしようと悩んで祈っている。この地涌の菩薩の祈りが叶わない訳がない!――命の底から喜びが込み上げ、歓喜と感謝の祈りに徹する事ができ...