一念が大事。
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一念が大事。
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🇷🇴
末法の教主・御本仏・日蓮大聖人の御金言。

創価学会初代会長・牧口先生・2代目会長・戸田先生・3代目会長・池田先生の御指導。

(副教学部長・河合師範御指導/辻副会長御指導)
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[BOT] 【断じて勝つ】
見た目は、勝つかどうかわからない、不安定なようであっても、死に物狂いで戦えば、その方が強いのである。

いわんや、我々には、信心がある。
法華経に勝る兵法はない。
祈れば、智慧が出る。
勇気がわく。
もう一重、深い次元で勝っていけるのである。
[BOT] 疑い、不安、煩悩などの種々の形で無明は現れてくる。しかし、それを打ち破っていく力は「信」以外にない。大聖人も「無疑曰信」と仰せです。「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり」とも言われている。鋭い剣です。魔と戦うという事も、根本的には無明と鋭く戦うのでなければならない。私たちは、広宣流布を妨げる魔の勢力と戦っています。
December 7, 2025 at 2:00 PM
[BOT] この魔との戦いも、根本的には無明との戦いです。また、人生に起こってくる色々な困難と戦うのも、本質は無明との戦いです。妙法への「信」、言いかえれば「必ず成仏できる」「必ず幸せになれる」「必ず広宣流布を実現していく」という一念が失せたならば、人生の困難にも、公布の途上の困難にも、負けてしまいます。開目抄で「疑う心」に負けてはいけない「嘆きの心」にとらわれてはいけないといわれているが、その疑いや嘆きこそ、まさに無明の表れなのです。
December 7, 2025 at 2:00 PM
[BOT] 怨嫉、憎悪、ムカつきの気持ちが起きたならば、御本尊に題目をあげて
「小さな心のわだかまりを消して下さい。もっともっと崇高なる広宣流布という目的にふさわしい前進をさせて下さい!」
こうお願いしていくべきです。

何でも御本尊に直結すればいいのです。
December 7, 2025 at 1:30 PM
[BOT] 謗法とは法に背く事であり、大御本尊を信じない事である。
信仰していても謗法を厳に戒めなくては成仏はできず、却って罰を受ける。
御本尊を疑う事が最も重大な謗法となる。
December 7, 2025 at 1:30 PM
[BOT] ☝🏻順調な時こそ油断大敵

順調なときこそ、「油断は大敵」である。
 
 日蓮大聖人は、主君の信頼を勝ち得て、苦境を脱しつつあった四条金吾に対して、「心に深く用心しなさい」(📖1176・通解)等と、このようなときこそ心を引き締めていくべきだと教えておられる。
December 7, 2025 at 1:30 PM
[BOT] 伸一はさらに、智慧が湧いたら、それを行動に移す「勇気」が不可欠であることを訴えた。
「御聖訓には『つるぎなんども・すすまざる人のためには用る事なし』(全1124・新1633)と仰せです。無量の智慧をもたらす法華経という剣も、臆病であっては、使いこなすことはできません。
 
🚨苦手だから避けようと思う心。
仕方ないのだと自らの臆病や怠惰を正当化しようという心――その自分の弱さに挑み、打ち勝つ勇気をもってください。そこに自身の人間革命があり、一切の勝利の要諦があります。
December 7, 2025 at 1:30 PM
[BOT] 📖月月・日日につよ強り給へ・すこしもたゆ撓む心あらば魔たよりをうべし

信心は「魔」との戦いである。信心が弱まれば必ず「魔」は勢いを増す。信心を破られてしまう。外から襲いくる魔と戦う事は、そのまま自身の内なる魔との戦いなのである。それなくして広布の前進も自身の一生成仏もない。「魔」との戦いを失った信心は、結局、観念論に陥ってしまうし、御聖訓通りの仏道修行とはいえない。
妙法の世界にあって、誉れの人、偉大な人とは誰か。それは信心強き人である。勇猛の心で魔と戦う人である。信心が強いか弱いか、広宣流布への一念が深いか浅いか。ここに仏法の厳しき因果律がある。
December 7, 2025 at 1:28 PM
[BOT] 📖 譬えば、一の師子に百子あり。彼(か)の百子、諸の禽獣(きんじゅう)に犯さるるに、一の師子王吼(ほ)うれば百子力を得て、諸の禽獣、皆頭(こうべ)七分にわる
(新版御書一七四五㌻)
December 7, 2025 at 12:23 PM
[BOT] なかなか願いが叶わないとあきらめてはなりません。
題目の力は素晴らしく、日々に生命深部に仏種が育ち、福智が生じ、生命の濁り、宿業が消えているのです。
磨くべきは信心、深めるべきは教学、増すべきは唱題、戒めるべきは謗法でしょう。
December 7, 2025 at 11:13 AM
[BOT] 仏法は間断なき仏と魔との戦いです。
魔は誰の生命にも潜んでいます。

油断が生じ惰性に陥ると、たちまち魔が動き出し身を破っていきます。

魔はいつもこちらの隙を伺っているからです。
少しでも油断があれば、その隙間から魔は侵入する。

絶えず前進していく信心によってしか魔を破る事はできない。
December 7, 2025 at 11:00 AM
[BOT] 前向きに、強気に、過去のことは反省しないこと。反省してもどうせまたやるんだから。
生命が変わらないとまたやるから。決意すればよい。
これから良くなればいい。後ろ向き運転は事故の元。
過去のことは振り返らないこと。良くなればいい。過去のことが活きてくるから。振り返っても落ち込むだけ。
いつも前向き、強気でいい。先生は「タッチの差だ」と言われている。
December 7, 2025 at 11:00 AM
[BOT] 九界の範疇に留まる限り、その幸福は外部の条件によって左右される一時的な幸福であり、流動的で千差万別に変化していくのである。従ってそこに向かわせるものは、それ自体が悪であり、魔の所為に他ならない。自己自身の完成による、外部の条件によって変えられる事のない、絶対的に崩れない幸福境涯を仏界というのである。これを明かしたのが法華経の開三顕一であり、この仏界の境涯を会得する法が本門文底の三大秘法である。三大秘法の仏法を持つ事を妨げ、成仏の直道を断とうとするものが「悪道に人をつかはす獄卒」である事を知らねばならない。反対に三大秘法の仏法を人に持たせ、成仏の直道へ入らしめる人は仏の使いである。
December 7, 2025 at 10:08 AM
[BOT] 滅後の弘教においては難は必然「忍辱の心」が必要になる。耐え忍ぶ心です。耐えるといっても退く事でも負ける事でもない。耐えて勝つのです。心は何があってもへこたれない。広宣流布は精神の闘争です。心が負けていては「忍辱の心」にはなりません。
December 7, 2025 at 9:08 AM
[BOT] 少欲知足は大切だが正法に対しては貪欲であらねばならない。欲を消し去るのではない。何を欲するか
煩悩即菩提です。無上の悟り、菩提を求める欲は即ち菩提となる
自分はこの程度でいい…というのは、謙虚に似て生命の可能性を低く見る大慢だ
December 7, 2025 at 8:18 AM
[BOT] 何も恐れるものはない。
何も怖いものはない。

我が身は、本来は妙法の当体である。
だから題目を根本にすれば
必ず勝利の智慧と勇気が現れる…との「以信代慧の確信」が鍵となる。
これが日蓮仏法の不退転の要諦です。
December 7, 2025 at 7:03 AM
[BOT] 題目の力は、計り知れないほど大きい。

私たちが唱える題目の”光明”は、全宇宙のすみずみにまで届き
無間地獄の境涯で苦しむ衆生をも照らし、即身成仏させていくのである。
December 7, 2025 at 6:08 AM
[BOT] この第六天の魔王とは何か。

人々の成仏を妨げる魔の働きの根源をなすものです。

魔王という固有の存在がいるのではなく、
人々の己心に具わった生命の働きです。

ゆえに、成仏というのは
本質的には外敵との戦いではなく
我が生命に潜む魔性との熾烈な戦いなんです。
つまり、内なる魔性を克服していってこそ人間革命、境涯革命があり
幸せを築く大道が開かれるんです。
December 7, 2025 at 6:00 AM
[BOT] 📖「我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり」(383㌻)と仰せの様に、妙法蓮華経への深く信の「一念」に、仏界の生命が顕現するのです。
「妙法」に「わが生命」を合致させゆく為の唱題です。ゆえに祈りとは、自身の一念における、法性と無明との熾烈な闘争です。この戦いに勝ち〝自分の生命が妙法の当体である〟と確信しきる事が「成仏の直道」であるとの御断言なのです。
即ち、無明に覆われて気づかなかった妙法と一体の本来の自己に目覚める戦いです。ですから「苦楽ともに思い合せて」(1143㌻)、迷いの自分に克ちゆく唱題を重ねる事が最も大切なのです。
December 7, 2025 at 6:00 AM
[BOT] 微塵の疑いも挟まない、御本尊に対する絶対の確信のみが、無明惑を打破する利剣であるとの仰せである。したがって、我々の信心とは、瞬間瞬間が己心の第六天の魔王との厳しい戦いであり、これを打ち破って勝ち抜いていかなければならないのである。
December 7, 2025 at 6:00 AM
[BOT] 二十三歳の二月、事業の危機を打開する為に奔走する中で、私は日記に記しました。「業因、業果、善因善果、この理法は、誰よりも悉く自己自身が知悉しているものだ。所詮、誰人を責めるものでもない。誰人の責任でもない」
透徹した仏法の因果律に照らすならば、運命は嘆き悲しむものではない。決然と立ち向かうものである。否、断固として創り変えていくものである。
我が師・戸田先生は、師子王でありました。故に、その弟子である私も、一切の悲哀や感傷を打ち破りました。私の胸奥には、広布の師匠の為に命を捧げて戦う随喜が燃え滾っていた。この師弟不二の烈々たる一念を因として、正義の反転攻勢の渦を巻き起こしてい...
December 7, 2025 at 6:00 AM
[BOT] 【己心の魔】
建設は死闘。破壊は一瞬である。悪が盛んになれば、善が滅びる。
不惜身命で悪と戦う勇者がいる限り、善は守られる。
しかし、もしその精神が失われれば、崩壊はすぐに始まってしまう。
このことを、よくよく心に留めていただきたい。【謗法】
December 7, 2025 at 5:20 AM
[BOT] 例えば、具合が悪くなった。具合が悪くなったという事自体が因果倶時で、信心が止まっているのです。
見ていてわかります。
「こんなに信心したのに」「私はこれだけ戦ってきたのに」
それ自体が退転なのです。

どんな事があっても御本尊様を放さない、信心だけは大聖人様の仰せ通りに進んでいく事です。
「仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影ななめなり」(新1346・全992)
December 7, 2025 at 5:20 AM
[BOT] 確信と歓喜の祈りに勝るものはありません。
先生は、私たちに具わる何ものにも負けない仏の生命を、「内発の力」と表現されています。「仏界の生命という『内発の力』は、誰も、何者も、奪い去ることはできません」「負けずに祈り抜く。その心が、すでに仏です。断固として現実の勝利となって現れていきます」
そして、諸天を揺り動かすような誓願の祈りこそが、「わが胸中の仏の生命を自由自在に現していく」要諦であることを教えてくださっています。
December 7, 2025 at 5:18 AM
[BOT] 結果に結び付かず「こんなに頑張っているのに、どうして?」と、苦しくなっていきました。そんな時、ある方の「どれだけ題目を唱えれば祈りが叶うのでしょうか」との質問に、幹部の方が答えているのを聞きました。「策や方法ではなく貴女が"題目しかない"と確信して祈っているかどうか。その一念が大事ですよ」目から鱗が落ちる思いでした。結果を焦るあまり、叶う、叶わないにばかり執着している自分に気付いたのです。
そうだ!広布の為、師匠の為にと題目を唱えている。友人を幸せにしようと悩んで祈っている。この地涌の菩薩の祈りが叶わない訳がない!――命の底から喜びが込み上げ、歓喜と感謝の祈りに徹する事ができ...
December 7, 2025 at 4:18 AM
[BOT] 「心は工《たくみ》なる画師の種種の五陰《ごおん》を造るが如く一切世間の中に法として造らざること無し」📖564㌻──「心」は優れた画家が自在に種々の姿を描く様に、世の中のあらゆる現象を造りだしていく──。「心の外に別の法無し」──心の外に別の法はない(全ての現象は心の産物である)──。大聖人の御手紙を拝する時、常に相手に応じた〝たとえ〟を引かれ〝文証〟を引かれて何とか「心」を変えよう、「一念」を強めよう「確信」と「自信」を与えようとされている。常に「希望」と「励まし」を太陽の様に送っておられる。「心」が変われば「一切」が変わる事を熟知されていたからであろう。
December 7, 2025 at 3:28 AM