起動しようとするとWindowsが操作効かなくなるの、
罰って感じだ
起動しようとするとWindowsが操作効かなくなるの、
罰って感じだ
なんだろう、なゆたは根本の部分で絶対的な価値観を信奉しすぎるなあ。
法とは人を縛るものではないのだから、縛るために法や理論を振りかざすのは違うだろ。
なんだろう、なゆたは根本の部分で絶対的な価値観を信奉しすぎるなあ。
法とは人を縛るものではないのだから、縛るために法や理論を振りかざすのは違うだろ。
自分に取れる選択肢、深入りせずに身を引くことだけだったんじゃないのかしら。
なんにしても。
自分に取れる選択肢、深入りせずに身を引くことだけだったんじゃないのかしら。
なんにしても。
その苦を検分し、調べ、知ることで、その正体を明らかにしてしまえば、それは苦悩では無く、なにかしらの名が与えられよう。
そうすると必然、今しがた苦と読んでいた某を忘れる方法も知れてくる。
ちょうど、いまのように。
であれば、私にとって楽とは、苦と向きあい、知り、詳らかにする事に他ならない。
だから、つまらないならやめろとか、楽しくないならやめろとか、そう言うのはてんで響かぬ。
むしろ身命を賭して苦に立ち向かい、その正体を明らかにしようと、走っている。
危険である。
その苦を検分し、調べ、知ることで、その正体を明らかにしてしまえば、それは苦悩では無く、なにかしらの名が与えられよう。
そうすると必然、今しがた苦と読んでいた某を忘れる方法も知れてくる。
ちょうど、いまのように。
であれば、私にとって楽とは、苦と向きあい、知り、詳らかにする事に他ならない。
だから、つまらないならやめろとか、楽しくないならやめろとか、そう言うのはてんで響かぬ。
むしろ身命を賭して苦に立ち向かい、その正体を明らかにしようと、走っている。
危険である。
もし、もしも、
楽というのが、その辞書的な意味通りだとするのなら、
それは苦役を忘れる事では無いのか。
酒を飲むにせよ、友と遊ぶにせよ、女と交わるにせよ、
やはり忘我の点において、変わるところがない。
例え己の足元に付いて離れぬ糞があろうとも、
それを一時でも忘れられぬ事が楽であり、そうした人が共にいて楽しい人なのだろう。
もし、もしも、
楽というのが、その辞書的な意味通りだとするのなら、
それは苦役を忘れる事では無いのか。
酒を飲むにせよ、友と遊ぶにせよ、女と交わるにせよ、
やはり忘我の点において、変わるところがない。
例え己の足元に付いて離れぬ糞があろうとも、
それを一時でも忘れられぬ事が楽であり、そうした人が共にいて楽しい人なのだろう。
楽をするのに理由はいらぬと、なんの理由もなく興味に任せて道楽に走ってみたが、なにもない。
金を使うのが楽しいのだろうか、モノが手に入ったのが楽しいのか。
欲しいと感じたものを買ったところで、手に入るのは罪悪感ばかりで、自分自身は何も変わらない。
楽しいとは何なのか。
楽しむとは何なのか。
皆が今、笑顔で品もなく、ありのままで語らえるのは何故か。
そして何故、私一人が、
それを分からないのか。
楽をするのに理由はいらぬと、なんの理由もなく興味に任せて道楽に走ってみたが、なにもない。
金を使うのが楽しいのだろうか、モノが手に入ったのが楽しいのか。
欲しいと感じたものを買ったところで、手に入るのは罪悪感ばかりで、自分自身は何も変わらない。
楽しいとは何なのか。
楽しむとは何なのか。
皆が今、笑顔で品もなく、ありのままで語らえるのは何故か。
そして何故、私一人が、
それを分からないのか。
楽を知らない私は、苦役を共有する事でしか社会と触れ合うしかないのか。
だから趣味だとか、娯楽だとか言われても、
やはり知れぬうちに苦役を手に取り、その陰気臭い暗闇に頬を擦り寄せている。
思えば幼い頃から、そうであったやうに思う。
人と遊んでいても、やはり楽ではならぬと抱いていたし、特に無秩序な悦楽や快楽に対しては、その頭から冷水をかけた事は数が知れない。
楽というのは、苦役を抜けた先に得なければならない。
言い換えれば、楽しそうにしている人や、楽にしている人とは、そうした苦役を抜けた先に楽を得ている。
楽を知らない私は、苦役を共有する事でしか社会と触れ合うしかないのか。
だから趣味だとか、娯楽だとか言われても、
やはり知れぬうちに苦役を手に取り、その陰気臭い暗闇に頬を擦り寄せている。
思えば幼い頃から、そうであったやうに思う。
人と遊んでいても、やはり楽ではならぬと抱いていたし、特に無秩序な悦楽や快楽に対しては、その頭から冷水をかけた事は数が知れない。
楽というのは、苦役を抜けた先に得なければならない。
言い換えれば、楽しそうにしている人や、楽にしている人とは、そうした苦役を抜けた先に楽を得ている。
そもそも「楽をしている」というように、知らぬうちに嫌悪感を刷り込まれたように思う。
思えば幼いころから、
楽や、楽しいというものは、何かしらの、特に苦役の対価であったように思う。
すなわち楽は、いつと知れず現れて、姿も形も知れぬまま、消えている。
調べてみれば、楽とは社会貢献だの経済的余裕だの、古代インドでさえ、苦と比べると甚だ浅いように思う。
それどころか今の私からすれば、社会貢献だの、富に恵まれる事など、そう対した楽には思えない。
なぜならそれらは、いずれも物質的な外因で、己の内面についてはとんと触れていない。
そもそも「楽をしている」というように、知らぬうちに嫌悪感を刷り込まれたように思う。
思えば幼いころから、
楽や、楽しいというものは、何かしらの、特に苦役の対価であったように思う。
すなわち楽は、いつと知れず現れて、姿も形も知れぬまま、消えている。
調べてみれば、楽とは社会貢献だの経済的余裕だの、古代インドでさえ、苦と比べると甚だ浅いように思う。
それどころか今の私からすれば、社会貢献だの、富に恵まれる事など、そう対した楽には思えない。
なぜならそれらは、いずれも物質的な外因で、己の内面についてはとんと触れていない。
自分には楽しい、という感覚が分からない事に気がついた。
特に「他人が今、なにを楽しんでいるのか」というのは皆目見当が付かない。
苦楽というように、
楽とは苦の対義語ように思う。
苦については、四苦八苦というように、その昔から人は向き合ってきて、多くの書籍が残っている。
だから苦というのは分かりやすいし、決して逃れ得ぬものと受け止められる。
どこへ行こうとも、自分に寄り添い決して離れぬのが、苦であるように思う。
恐れ、逃れようとするのでは無く、
手を指し、よく眺め、その姿をありありと見つめると、その実、なにということはない。
自分には楽しい、という感覚が分からない事に気がついた。
特に「他人が今、なにを楽しんでいるのか」というのは皆目見当が付かない。
苦楽というように、
楽とは苦の対義語ように思う。
苦については、四苦八苦というように、その昔から人は向き合ってきて、多くの書籍が残っている。
だから苦というのは分かりやすいし、決して逃れ得ぬものと受け止められる。
どこへ行こうとも、自分に寄り添い決して離れぬのが、苦であるように思う。
恐れ、逃れようとするのでは無く、
手を指し、よく眺め、その姿をありありと見つめると、その実、なにということはない。
特に運営判断が根拠なく、多数の感情で動かされる事は著しく危険だと思っているので……。
特に運営判断が根拠なく、多数の感情で動かされる事は著しく危険だと思っているので……。
遊びなら遊びで構わないし、遊びじゃないというのなら、
しっかりと根拠立てて理詰めで、舵切ってくださいな、という。
遊びなら遊びで構わないし、遊びじゃないというのなら、
しっかりと根拠立てて理詰めで、舵切ってくださいな、という。
降りるぞ、この船。
降りるぞ、この船。