高村不期
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高村不期
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日本の戦国期史料を読んでいます。日本史の素人ですが、あれこれ推測して楽しんでいる趣味人です。
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ALS記 https://ameblo.jp/buqimingri
コーパスをご利用いただき、ありがとうございます。光栄です。私の書き込みはフルオープンなので、いつでもお使い下さい。今後も細々と続けていこうと思っています。引き続き宜しくお願いします。
March 11, 2025 at 2:43 PM
お待たせしております。氏規関連文書は集め終わって、今解釈文をチクチクと入力しているところです。年内には何とかしたいなあと思いつつ、1月にはデータをアップできるといいなあという感じです。
December 9, 2024 at 10:52 AM
改めて手持ちのデータを見たところ、太田氏で実名が「資」で始まるのは、資矩・資正・資叶・資顕がいました。資正以外は1点のみでの登場で、資矩は永禄9年、資叶は永禄12年、資顕は年未詳。氏資名乗りの初出は永禄7年なので、初名が資房というのも可能性はありそうです。ただ、後世の史料だと氏房に引き寄せて捏造した可能性もまたあります。何れにせよ実史料で何か出てくるのを待つしかないですね。
December 7, 2024 at 8:17 AM
新八王子市史資料編2_0553に「平山ヵ直重判物」(日野市金剛寺所蔵土方文書)がありました。三沢衆だったようです。

三沢之儀、拾騎衆ニ申請、各々得令配当候、然者御給ニ被下候之上者、取刷不入候得共、何も無案内与申、下地入組候之間、無六ヶ敷様ニ有意見、可被走廻儀、公方得之御奉公、於我等も祝着可申候、為其一筆遣之候、若旁々ニ候之間、能々有談合儀、肝要ニ候、仍如件、
寅六月廿二日/直重(花押)/土方平左衛門尉殿
July 6, 2024 at 12:52 PM
「資房」という名乗りは知りませんでした。「房」は上杉で見られた字ですが、憲房以降は見られないので時代的に離れています。綱成の弟が綱房ですがこちらも関係性は低いかもしれません。氏房は仮名も「十郎」なので太田源五郎家よりは太田十郎家の方に名乗りが近いように考えています。
May 13, 2024 at 4:52 AM
上記から推測してみる。

綱定は氏邦補佐として越相同盟交渉に当たったが頓挫。交渉役として共に立った遠山康光に合わせて、又六を伴って越後に行った(小田原にいた母は既に亡くなっていた)。康光・綱定が越後に在国し続けたのは、三郎景虎勢力を維持して上杉氏を牽制するためと思われる。そのため、氏邦補佐首席は空席となっていた。

その後三郎景虎・康光と共に綱定が死去したと思われ、氏邦補佐首席は猪俣邦憲に落ち着いていく。一方で綱定後継者と思われる又六は当主馬廻を経て氏邦補佐へと戻っていった。
May 1, 2024 at 1:54 AM
天正6年4月晦日の由良成繁書状写に「三山又六殿御堅固候哉」とあり、越後国に綱定一族と思われる人物がいることが判る。又六は、天正12年4月5日には足利での戦功を氏直に賞されている。そして後北条最末期の天正18年3月18日に氏邦朱印状の奉者となっている。これらから、又六は越後へ三郎景虎と共に赴き、その後当主直属となった後に、綱定と同じく氏邦朱印状奉者となった。

興味深いのは、三山又六の越後在国が終わってから、氏邦朱印状奉者に猪俣邦憲が多く出るようになること。綱定がいなくなってからは不特定多数の奉者体制だったのが、天正7年4月24日から邦憲に切り替わっていく感じ。
May 1, 2024 at 1:53 AM
高野山高室院月牌帳によると、永禄12年12月11日に「相州小田原」にて三山五郎兵衛(綱定)が母(戒名:大姉預)の供養をしている。「三山五郎兵衛母儀立之」とあるのは一見すると綱定母が位牌を立てたように読めるが、他例から「(為)母儀立之」の筈が脱字したものと考えられる。ちなみに「大姉」で始まる戒名記述はここだけ。

大姉預侈 相州小田原 三山五郎兵衛母儀立之 永禄十二年十二月十一日
May 1, 2024 at 1:52 AM
参考値として、今川当主のものを追加した。今川家は割と官途のみの名乗りが多い感じ。氏輝は官途を得る前に亡くなったので行なっていないが、氏親の修理大夫、義元の治部大輔、氏真の上総介は傾向が顕著。
April 10, 2024 at 2:16 PM
平姓名乗りは正規外交文書・年頭挨拶・寺社宛てが多いようです。例外として戦国遺文後北条氏編3853「北条氏政書状写」(武家事紀三十三)がありまして、これは市田氏相続保証の文書です。ただ、写しなのでちょっとこちらも疑義はあります。
April 9, 2024 at 2:59 PM
Reposted by 高村不期
嘘つきました、あったわ、ここは完全に鳥だが、生きてる白鳥珍しいようなので、やっぱ産地は西ではなさそう
April 3, 2024 at 2:54 PM
ご指摘ありがとうございます(粗忽者なので助かります)。翻刻が戦北のままでデータを出してしまっていました。戦北で「招玄」となっている部分、市史では「松玄=松平玄蕃頭=家清ヵ」となっていました。「くこん」は幻庵覚書に「のちに御さかな給候て、くこん給候へく候」と出てきます。

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April 3, 2024 at 1:07 PM
ご指摘いただいて気付いたのだけど、1586(天正14)年4月24日の北条氏政書状写の文言が違っていた。戦北で「えすき者」となっているが小田原市史では「くこんすきにて」とある。氏房から家康へ鷹を贈る前文から「餌付き」と解釈したのだろうけど、この部分は松平玄蕃頭への贈呈品指示なので「九献」の方が妥当性があると判断し、改めて修正した。
April 3, 2024 at 12:57 PM
また、大森式部大輔が上杉憲房に蜜柑を贈っているので、後北条氏以前に小田原近辺で蜜柑が生産されていたものと思われる。一緒に贈られた「安合」はアンコウだろうか。

如来札、新年之佳慶雖事旧候、更不可有際限候、仍安合并蜜柑給候、目出忻悦之至候、祝詞猶期面之時候、恐々謹言、
正月廿日/藤原憲房(花押影)/謹上大森式部大輔入道殿
埼玉県史料叢書12_付016「上杉憲房書状写」(相州文書足柄上郡)
年未詳
April 3, 2024 at 9:58 AM
「平氏邦」と名乗っているのは戦北2956で加沢記五からの引用で要検討ですね。名胡桃への伏線みたいな位置づけなので慎重になっているのだろうと思います。家中以外に「大途」を使っている語用は怪しいかなと。

芳墨致披見候、如来意、我等近年雖令発向候、掛難所、殊に其城堅固、貴殿仕合尤に候、書状之趣、大途に及披露候処、神妙之至に被思召候、山中珍敷覚に付、一両日鷹狩被仰付候条、静に寄可遂鬱憤候、併速可令降参は、其所領は任望、一族并籠城衆可為安堵候、猶期一戦之時候、恐ゝ謹言、
五月十一日/平氏邦/矢沢薩摩守殿
戦国遺文後北条氏編2956「北条氏邦書状写」(加沢記五)
要検討。1586(天正14)年比定
April 3, 2024 at 9:56 AM
『古文書難語辞典』によると、戦場働きのようですね。ご提示になった文脈でも意味は通りそうです。「魚+客」の字も掲示されているので、鮥はこの略字かもしれません。
April 3, 2024 at 3:38 AM
酒を注ぐ容器として、瓶子・銚子が見られる。「徳久利・徳利」は見られないから、もしかすると白磁の酒器が戦国期に登場して「白鳥」と呼ばれ、それが近世に「徳久利」と呼ばれていたという可能性もあるのかもしれない。また、酒器の白鳥に酒を入れて贈る場合と、酒器単体で贈る場合があったと考えると、ある程度の整合性は取れそうな感じもする。
April 2, 2024 at 1:07 PM