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ALS記 https://ameblo.jp/buqimingri
三沢之儀、拾騎衆ニ申請、各々得令配当候、然者御給ニ被下候之上者、取刷不入候得共、何も無案内与申、下地入組候之間、無六ヶ敷様ニ有意見、可被走廻儀、公方得之御奉公、於我等も祝着可申候、為其一筆遣之候、若旁々ニ候之間、能々有談合儀、肝要ニ候、仍如件、
寅六月廿二日/直重(花押)/土方平左衛門尉殿
三沢之儀、拾騎衆ニ申請、各々得令配当候、然者御給ニ被下候之上者、取刷不入候得共、何も無案内与申、下地入組候之間、無六ヶ敷様ニ有意見、可被走廻儀、公方得之御奉公、於我等も祝着可申候、為其一筆遣之候、若旁々ニ候之間、能々有談合儀、肝要ニ候、仍如件、
寅六月廿二日/直重(花押)/土方平左衛門尉殿
綱定は氏邦補佐として越相同盟交渉に当たったが頓挫。交渉役として共に立った遠山康光に合わせて、又六を伴って越後に行った(小田原にいた母は既に亡くなっていた)。康光・綱定が越後に在国し続けたのは、三郎景虎勢力を維持して上杉氏を牽制するためと思われる。そのため、氏邦補佐首席は空席となっていた。
その後三郎景虎・康光と共に綱定が死去したと思われ、氏邦補佐首席は猪俣邦憲に落ち着いていく。一方で綱定後継者と思われる又六は当主馬廻を経て氏邦補佐へと戻っていった。
綱定は氏邦補佐として越相同盟交渉に当たったが頓挫。交渉役として共に立った遠山康光に合わせて、又六を伴って越後に行った(小田原にいた母は既に亡くなっていた)。康光・綱定が越後に在国し続けたのは、三郎景虎勢力を維持して上杉氏を牽制するためと思われる。そのため、氏邦補佐首席は空席となっていた。
その後三郎景虎・康光と共に綱定が死去したと思われ、氏邦補佐首席は猪俣邦憲に落ち着いていく。一方で綱定後継者と思われる又六は当主馬廻を経て氏邦補佐へと戻っていった。
興味深いのは、三山又六の越後在国が終わってから、氏邦朱印状奉者に猪俣邦憲が多く出るようになること。綱定がいなくなってからは不特定多数の奉者体制だったのが、天正7年4月24日から邦憲に切り替わっていく感じ。
興味深いのは、三山又六の越後在国が終わってから、氏邦朱印状奉者に猪俣邦憲が多く出るようになること。綱定がいなくなってからは不特定多数の奉者体制だったのが、天正7年4月24日から邦憲に切り替わっていく感じ。
大姉預侈 相州小田原 三山五郎兵衛母儀立之 永禄十二年十二月十一日
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大姉預侈 相州小田原 三山五郎兵衛母儀立之 永禄十二年十二月十一日
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bsky.app/profile/buqi...
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如来札、新年之佳慶雖事旧候、更不可有際限候、仍安合并蜜柑給候、目出忻悦之至候、祝詞猶期面之時候、恐々謹言、
正月廿日/藤原憲房(花押影)/謹上大森式部大輔入道殿
埼玉県史料叢書12_付016「上杉憲房書状写」(相州文書足柄上郡)
年未詳
如来札、新年之佳慶雖事旧候、更不可有際限候、仍安合并蜜柑給候、目出忻悦之至候、祝詞猶期面之時候、恐々謹言、
正月廿日/藤原憲房(花押影)/謹上大森式部大輔入道殿
埼玉県史料叢書12_付016「上杉憲房書状写」(相州文書足柄上郡)
年未詳
芳墨致披見候、如来意、我等近年雖令発向候、掛難所、殊に其城堅固、貴殿仕合尤に候、書状之趣、大途に及披露候処、神妙之至に被思召候、山中珍敷覚に付、一両日鷹狩被仰付候条、静に寄可遂鬱憤候、併速可令降参は、其所領は任望、一族并籠城衆可為安堵候、猶期一戦之時候、恐ゝ謹言、
五月十一日/平氏邦/矢沢薩摩守殿
戦国遺文後北条氏編2956「北条氏邦書状写」(加沢記五)
要検討。1586(天正14)年比定
芳墨致披見候、如来意、我等近年雖令発向候、掛難所、殊に其城堅固、貴殿仕合尤に候、書状之趣、大途に及披露候処、神妙之至に被思召候、山中珍敷覚に付、一両日鷹狩被仰付候条、静に寄可遂鬱憤候、併速可令降参は、其所領は任望、一族并籠城衆可為安堵候、猶期一戦之時候、恐ゝ謹言、
五月十一日/平氏邦/矢沢薩摩守殿
戦国遺文後北条氏編2956「北条氏邦書状写」(加沢記五)
要検討。1586(天正14)年比定